令和五年葉月 国宝「円珍戒牒」、狩野探幽他「帝鑑図屏風」、春信「舟中蓮とる二美人」

東京国立博物館本館2階では、今週2室(国宝室)と10室(浮世絵)で展示替えがありました。今回は、2室から国宝『円珍戒牒』、8室の狩野探幽他『帝鑑図屏風』、10室の春信『舟中蓮とる二美人』を取り上げます。

猛暑にもかかわらず、たくさんの外国人が日本美術を楽しんでいました。聴いたことのない外国語のおしゃべりを聴きながら、どこの国から来たのだろうと想像しました。

 

国宝「円珍戒牒」(円珍関係文書の内) 平安時代・天長10年(833) 
展示期間2023.8.1~8.27

円珍(814~891)は平安時代の僧で、母親は空海の姪にあたるとされています。唐に留学後、園城寺三井寺)の別当(長官)を務め、後に最澄が開いた延暦寺のトップ、第五代目の天台座主になりました。空海最澄の両方に関係しているすごい人物で、没後朝廷から智証大師の称号を贈られています。東博には、今回展示されている「戒牒」を含め、円珍関係の文書が8点あるそうです。「戒牒」というのは、正式に僧侶として認められたことを証明する文書で、円珍は15歳の時に比叡山で修業を始め、19歳の時に当時の座主から戒を授かりました。この文書の冒頭には「近江国比叡山延暦寺菩薩戒壇」とあり、この写真より左には「天長十(833)年四月十五日」と日付が記されています。なんと今から1190年前の文書です! 書いた人の名はわかりませんが、鋭くきちんとした格調のある筆跡で、もらった人はありがたみを感じる証明書だと思います。当時は、僧侶の資格は国が管理していましたので、最高行政機関である太政官の印が15もおされています。なお、東博三井寺にある「円珍関係文書」は今年の5月にユネスコの記憶遺産に登録されました。これは国内では8件目とのことです。

 

次は8室の、狩野探幽他筆「帝鑑図屏風」です。

狩野探幽他筆「帝鑑図屏風」の内左隻 江戸時代・17世紀 紙本墨画着色 
展示期間2023.7.19~9.3

帝鑑図とは、中国の歴代皇帝の善行や悪行を描いた絵画で、為政者の戒め江戸時代・17世紀 紙本墨画着色とするものです。本作品は、江戸時代初期に狩野派、長谷川派、海北派の絵師が描いた絵を屏風に貼った貼交(はりまぜ)屏風で、右隻に善行6図、左隻に悪行6図を配しています。善行よりは悪行の方が面白いのが常ですので、左隻の一番右側の「戯挙烽火(ぎきょほうか)」をご紹介しましょう。

紀元前8世紀の周の幽王には褒姒(ほうじ)という名の愛する妃が居たのですが、彼女は笑ったことがありませんでした。ところが、あるとき敵の来襲を知らせる狼煙(のろし)があがり家臣たちがあわてて駆けつけるようすを見て、初めて笑ったのです。それを喜んだ王が、その後も彼女を笑わせるためにたびたび嘘の狼煙をあげたので、本当に敵が攻めてきたときには誰も駆けつけず、王は殺され、王朝は滅んだというお話です。イソップのオオカミ少年を壮大にしたような話ですが、実話だったようです。狩野派の長老として探幽らを教育した狩野興以(こうい)が描いたこの作品は、褒姒を喜ばせるために幽王が狼煙を上げさせた場面です。馬に乗って駆け付ける家臣が描かれていますので、この時二人はまだ幸福の絶頂だったのでしょう。それとも、これは敵の来襲なのでしょうか? だとすれば、のんびり座っている二人は哀れです。

 

最後は鈴木晴信筆の浮世絵「舟中(せんちゅう)蓮とる二美人」です。

鈴木晴信筆「舟中(せんちゅう)蓮とる二美人」江戸時代・明和2年(1765) 
展示期間2023.8.1~8.27

浮世絵版画は、初めは墨一色の墨摺り絵でしたが、三色程度の色を使う紅摺絵(べにずりえ)を経て、明和2年(1765)に初めて本格的な多色刷り版画「錦絵」が登場しました。本作品はその記念すべき年の作品です。江戸時代は旧暦でしたので、一カ月が30日からなる「大の月」と、29日からなる「小の月」があるうえ、毎年順番が変化しました。そこで、絵の中に大小の月を示した絵暦を配ることが流行しました。その絵暦グループのリーダーだった大身の旗本大久保巨川(きょせん)が、絵師に鈴木晴信を起用して作らせた多色摺版画が錦絵の始まりとされています。一般に販売される絵ではなかったためか、この絵には画中には「巨川」の名が記され、春信の名はありません。東博の解説には「蓮を採る娘の帯に『明和二乙トリ 大弐弎五六八十』の文字が確認され、明和2年の大の月を記した絵暦であることがわかります」とあります。なるほど、娘の帯には空摺(からずり)の凹凸で文字が描かれているのはわかるのですが、どれがどの字に相当するのか、私にはよくわかりませんでした。また、この作品は水性の絵具を使っているため色が褪せてしまっているのですが、本来は水面は青く、蓮の花は鮮やかな薄紅色だったはずです。

その代わりと言ってはなんですが、先月江戸川区一之江にある霊廟の池で撮影した蓮の花をご覧いただきましょう。

江戸川区教育委員会の案内板によれば、2,000年前の蓮の種を発芽育成した大賀蓮を移植したものだそうです。今月の東博の展示でも、蓮の花を描いた浮世絵が何点かありました。江戸時代の人たちも夏の風物詩である蓮の花を眺めて、しばし猛暑を忘れたのでしょう。

 

☆このブログは、4週間ごとに展示作品が替わる東京国立博物館の国宝室と浮世絵の展示替えにあわせて更新しています。次回は9月1日頃を予定しています。

令和五年文月 縄文時代の「注口土器」 藤原定家の「申文」 広重の「両国花火」 そして宮沢賢治


今週、東京国立博物館(トーハク)本館では、1室(縄文・弥生・古墳)、国宝室、10室(浮世絵)他で展示替えがありました。また、2室では先週から特集展示「藤原定家ー『明月記』とその書」が始まっています。今回はその中から次の3点をご紹介します。

 

最初は、1室の重要文化財「人形装飾付異形注口土器(ひとがた そうしょくつき いけい ちゅうこうどき)」です。重要文化財に指定されています。

人形装飾付異形注口土器 北海道北斗市出土 縄文時代後期 
重要文化財 展示期間2023.6.27-8.6

注口土器(ちゅうこうどき)というのは、縄文時代後期に東北地方を中心に造られた、土瓶(どびん)のような形をした土器です。中央にある穴は、本来ここに注ぎ口が付いていたことを示しています。通常はかわいらしい形をしているのですが、この土器には人面のついた大きな持ち手が本体の上に乗っかっており、迫力があります。まさに作品名にある通り「異形」の土器です。出土したのは北海道の道南地方にある北斗市です。このあたりは、有名な青森県三内丸山遺跡をふくむ17の遺跡が、「北海道・北東北の縄文遺跡群」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている地方です。昨年、北斗市の隣の函館市にある「函館市縄文文化交流センター」に行ってきましたが、そこに墓の中から発掘された9,000年前の世界最古の漆(うるし)の糸の遺物が展示されていました。現在も発掘が続けられており、北海道にも豊かな縄文文化があったことを実感しました。縄文時代にはお茶はありませんでしたので、土瓶に似ているからといってみんなで茶飲み話をしたわけではないでしょう。この作品の解説プレートには、「葬送などの儀礼に使われたと考えられて」いると記してありました。トーハクの平成館考古展示室にある青森県出土の注口土器について、「注口部が男性器を真似る例が多い」との解説が文化遺産オンラインにありました。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/464435

生と死に関わる重要な儀礼に使われていたのでしょうが、どんな儀礼であったのか、私には想像することもできません。

 

次はちょっとおもしろい作品です。和歌の世界の巨人藤原定家(ふじわらのていか1162-1241)が自分の昇進が遅いのを不服に思って書いた上申書で、「申文(もうしぶみ)」と言います。これも重要文化財です。

申文 藤原定家筆 鎌倉時代建仁2年(1202) 紙本墨書 
重要文化財 展示期間2023.6.27-8.6

申文というのは平安時代以降、官人が役職や官位の昇進を望むとき、希望する官職を挙げ、その理由を書いて朝廷に提出した文書のことです。定家は藤原北家御子左流という比較的恵まれた血筋だったのですが、1189年、28歳で少将に任官してから14年間も同じ地位に留められていました。若い頃に殿上で暴力事件を起こしたせいかもしれません。この文書の冒頭に昇進を希望するために「転任所望事」と記し、2行おいて「就中、寿永二年秋、忝列仙籍以来、奉公労二十年」とあります。寿永2(1183)年に正五位下になって以来朝廷に長く勤めており、昇進が当然であることを理由を挙げて述べています。この「申文」の結果、建仁2年(1202)10月、41歳のときに晴れて中将に昇進し、晩年には中納言・正二位という高い地位にまで上りました。この申文は肉太の力強い筆跡で書かれており、定家の気迫が感じられます。現代のサラリーマンが上司に「課長にしてくれ」と文章で提出したら、「おまえは馬鹿か」と言われそうです。昔の人の方がよほど合理的であったのかもしれません。『古今集』の撰者である紀貫之従五位下止まりと、有名な歌人は意外に出世していないのですが、定家はなかなかの策士であったようでトップクラスの貴族である公卿にまで出世しました。そのおかげもあってか、彼の孫の為相(ためすけ)が創始した冷泉家は長く続き、数々の貴重な文化遺産を残してくれました。

 

最後はこの時期にふさわしい浮世絵、歌川広重の『名所江戸百景・両国花火』です。

名所江戸百景・両国花火 歌川広重筆 江戸時代・安政5年(1858)  
大判 錦絵 展示期間2023.7.4-7.30

現在は「隅田川花火大会」として有名なこの催しは、江戸時代中期、享保18年(1733)5月28日に始まった両国川開きにまでさかのぼるといわれています。両国川開きは、飢饉や疫病による死者を供養し災厄除去を祈願して行われ、その初日に花火が打ち上げられたのがはじまりとのことです。浮世絵でも、豊春、豊国、北斎等多くの絵師が描いています。なかでもこの広重の作品はユニークです。隅田川上流の上空から、両国橋を俯瞰して描いており、現代のテレビ中継のような視点です。ヘリコプターもドローンもない時代に、広重の心ははるか上空まで羽ばたいていたのでしょう。橋の上をぎっしりと埋め尽くした人々や、たくさんの船にも人影が見えます。花火の光と提灯の灯に照らされた水面の青が心にしみます。なお、今年の「隅田川花火大会」は7月29日に開催されるそうです。

 

話は変わりますが、先日岩手県花巻市宮沢賢治記念館に行ってきました。賢治は浮世絵が大好きで、買い求めては人に与えていたとのことです。その内の何枚かが遺族に残り、展示されていましたので撮影してきました。広重の作品もありました。(同館はほとんどの展示品が営利目的でなければ撮影可でした。)

賢治はたびたびトーハクにも訪れており、大正5(1916)年9月、20歳のときの友人宛手紙に次の様に記しています。

「博物館に行って知り合いになった鉱物たちの広重の空や水とさよならをして来ました。」*1

「知り合いになった鉱物たち」とは何でしょうか。浮世絵好きの人ならおわかりでしょう。江戸時代後期、ヨーロッパから長崎経由もたらされた顔料絵具「ベロ藍(ベルリン・ブルー)」のことです。ベロ藍は染料と違い褪色もせず安価だったことから、渓斎英泉が使い始め、広重や北斎も盛んに用いました。広重の浮世絵がヨーロッパにもたらされると、「広重ブルー」と呼んで絶賛されたということです。賢治もこの鉱物由来の顔料のことをよく知っていて、上記の手紙の表現になったのでしょう。

 

今月は、その頃賢治がトーハクで見た浮世絵について詠んだ短歌*2をご紹介して終わることとします。

 

 うたまろの 

 乗合ぶねの前に来て 

 なみだながれぬ 富士くらければ

 

宮沢賢治がトーハクで観た作品は、次の「一富士、二鷹、三茄子」と思われます。

現在のトーハクの画像検索では出てきませんが、米国議会図書館のページにありました。Ichi fuji ni taka san nasubi (loc.gov) )

 

 

 

 

 

-

*1:ちくま文庫版『宮沢賢治全集9』p.41

*2:ちくま文庫版『宮沢賢治全集3』p.275

令和五年水無月 「般若菩薩像」、栄之と歌麿の「蛍狩り」、「太刀(号 今荒波)」

今週、東京国立博物館の本館では2室(国宝室)と10室(浮世絵)で展示替えがありました。国宝室の作品は鳥取豊乗寺(ぶじょうじ)の『普賢菩薩像』です。年月とともに黒く変色する銀箔や銀泥をたくさん使っているせいか、暗い画面となっています。しかし、じっと見ていると菩薩の顔や、截金(きりかね)を使って描かれた細部の文様も見えてきます。5分間ほど見つめていると、暗いお堂の中から菩薩が現れてくるような感覚を味わえます。4月に展示されていた華麗な『普賢菩薩像』と異なり、重厚な作品です。寄託品のため残念ながら写真撮影が禁じられていました。

その代わりに、3室の『般若菩薩像』(重要文化財をご紹介します。

般若菩薩像 鎌倉時代・13世紀 絹本着色 重要文化財 展示期間5/16-6/25

「般若」とは古代インドの言語パーリ語の「パンニャー」に由来する言葉で、「知恵」を意味します。たくさんの仏や菩薩を描いた「胎蔵界曼荼羅」図では、中央の四角いスペースのすぐ下の「持明院」と呼ばれる場所に、4体の明王に囲まれている像です。近くに展示されている「木版両界曼荼羅図」でも小さい像が確認できます。単独で描かれた例は現在この作品しかないそうです。眼が3つ、腕が6本、しかも鎧を着ているという異形の姿なのですが、とても穏やかな印象を受けます。それは、手と足がぽっちゃりと、しかも脱力した感じで描かれており、顔の表情もやさしげに表されているからでしょう。密教仏画護摩を焚く祈りの儀式で使われたため劣化しているケースが多いのですが、この像はとても良い状態を保っています。知恵を授かりたいと願った人が、個人的にお寺に寄進したもので、あまり儀式に用いなかったのかもしれません。知恵を授かるには、3つの眼、六本の腕で、鎧を着て戦う心構えが必要なのだと、やさしく諭してくれているのでしょう。

 

今月10室では、江戸の初夏の風物詩「蛍狩り」をテーマにした浮世絵が7点展示されています。その中から、鳥文斎栄之(ちょうぶんさい えいし)と喜多川歌麿の作品を取り上げます。現代の東京では野生の蛍を見ることはかなわぬ夢ですが、江戸時代はたくさんいたようです。谷中の螢沢、高田落合、目白下といった江戸の郊外に名所があり、日没から一時(いっとき、2時間)ほど蛍狩りを楽しんだようです。

鳥文斎栄之 蛍狩り 江戸時代・18世紀 錦絵 3枚続き 展示期間6/6-7/2

栄之は歌麿美人画で競い合った絵師で、この絵でも8人の美女が蛍狩りを楽しんでいる情景を描いています。風が左から右に吹いており、水辺の草や着物の袖が右に流され、絵全体に動きが感じられます。でも、蛍が飛ばされていなくなってしまうのではと、ちょっと心配です。中央には縁台があり、池には筏が浮かんでいるようで、右図の女性は長い棒を船をこぐ櫂のように持っています。ここは庶民が行く蛍狩りの名所ではなく、大名庭園の池のほとりなのかもしれません。栄之は500石取りの高位の旗本で、若い頃は将軍のお世話をする小納戸役という役職についており、時の将軍とともに狩野派の絵師について絵を学んだと伝わっています。でも、狩野派の渋い絵は嫌いだったのでしょう、鳥居清長にあこがれて浮世絵師になってしまいました。この当時、浮世絵は武士の間でも人気が高く、栄之は武家好みの清楚な美人画を多く描きました。(浮世絵は町人の芸術と思われがちですが、江戸には町人が50万人、武士とその家族が50万人住んでいましたので、武家は大きなマーケットでした。)続き物の作品は一枚一枚別々にも買えたため、摺った時期が異なる作品が混じることがあります。東博の解説パネルには「中央の図には墨のぼかしがありません。夜の情感はどちらの摺りが効果的に見えるでしょうか」とあり、中央図は別の時期の摺りであることが示されています。確かに、中央図の上段には夜の闇を表す黒いぼかし摺りはありません。しかし、真ん中の主人格の女性にスポットライトが当たっているようで、私にはこの3枚でも不自然さは感じませんでした。

喜多川歌麿 蛍狩り 江戸時代・18世紀 錦絵 3枚続き 展示期間6/6-7/2

美人画で有名な歌麿ですが、風俗画もたくさん残しています。この「蛍狩り」もその一つで、栄之のように理想の美人に蛍狩りをさせるのではなく、子供も含む庶民が楽しむ様子を、3枚セットで懐かしくも美しい情景として描いています。場所も、江戸郊外の小川が流れ、雑草が繁る空き地です。中央の虫かごを持つ女の子は、既に捕まえた蛍の光を、紗の布を透かして眺めています。左の男の子はまだ捕まえていないようで母親をせかしており、母親は一生懸命団扇で蛍を追っています。

歌麿の生年は1753年頃といわれており、1756年生まれの栄之より少し年上ですが、二人は同時代に競い合いました。東博同様両者の「蛍狩り」を保有しているボストン美術館のホームページでは、制作年を両作品とも1796-7年(寛政8-9年)としています。また、版元(出版者)も同じ「泉市」の判が捺してあります。これは版元が仕組んだ競作で、同じ店頭に並べて売っていたのかもしれません。皆さんだったらどちらを買いますか。私は、迷わず両方買って帰ります。

 

13室では国宝や重文の刀剣が展示されていました。刀剣はあまり詳しくありませんが、刀身の輝きや刃文の美しさには魅了されます。本来は手に取って鑑賞するもので、展示ケースのガラス越しではなかなか細部が見えませんし、写真に撮るのはたいへんです。せっかく苦労して撮影しても、帰宅してPCで拡大して見てみると良く撮れてないことがほとんどです。しかし、この作品は結構良く撮れていました。

太刀 備前一文字(号 今荒波) 鎌倉時代・13世紀 重要文化財 展示期間 4/11-7/2

同上(部分)

鎌倉時代、武士は馬に乗り刃を下にした刀を腰から下げて戦に臨みました。ですから、博物館でも刃を下にして展示し、刀と区別して太刀と呼んでいます。この作品は、多くの名工を輩出した備前岡山県南東部)の一文字派によるものです。荒波のような丁子(グローブ)の実の形の刃文が続くことから、「今荒波」の名が付けられたとのことです。上記部分図にも、その荒波が写っています。刀剣は、神社等に奉納されたものを除けば鑑賞用のものではなく、第一に人を殺傷するための武器でした。この太刀も人を切ったことがあるかもしれないと思うと、他の分野の展示品と異なり怪しい美しさを感じます。

 

 



 

令和五年皐月 家康の「日課念仏」、浮世絵、シルクロードの菩薩像頭部

今週、東京国立博物館本館では、国宝室、5・6室(武士の装い)、10室(浮世絵)他で展示替えがありました。国宝室では詩画軸『渓陰小築図』が展示されていましたが、寄託品のためか撮影不可とのことで、残念ながらご紹介できません。その代わり、面白いものを5室で見つけました。徳川家康自筆と伝わる『日課念仏』です。

日課念仏』伝徳川家康筆 江戸時代・17世紀 展示期間 5/9~6/18

南無阿弥陀仏」という文字が何と252個も書きつけられています。家康の宗旨は浄土宗でした。その開祖法然は平安末期の人で、釈迦が死んで長い時が過ぎた末法の世では、阿弥陀仏の名前をとなえることでしか人々は救われないと考えました。家康の生きた時代は戦国時代、末法の世よりもっとひどい修羅道の世界でした。彼自身生涯に何度も死を覚悟したことがあったようです。阿弥陀仏にすがり、なんとか死後は極楽浄土に生まれ変わりたいと願った表れがこの『日課念仏』なのかもしれません。その家康の肖像画も展示されていました。

徳川家康像(模本)』(部分)原本:狩野探幽筆  江戸時代・17世紀 展示期間 5/9~6/18

江戸時代初期の狩野派の総帥、狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた家康の肖像画の模写です。元の絵は戦災で焼失したとのことです。探幽は1612年、数えで11歳の時に駿府で家康に拝謁しています。既に天才絵師と言われていましたので、顔は忘れないはずですから、晩年の家康はきっとこんな顔をしていたのでしょう。手前にいるお坊さんは、家康のブレーンの一人だった天海大僧正です。天海は家康の死後、家康を東照大権現として神格化するうえで重要な役割を果たしました。神様になる家康が、生前は一生懸命「南無阿弥陀仏」ととなえていたかとおもうと、ちょっとおかしいですね。

 

次は10室で展示されている浮世絵、鳥居清長の『三代目瀬川菊之丞之石橋(しゃっきょう)』です。

『三代目瀬川菊之丞の石橋』鳥居清長筆 寛政元年(1789)  展示期間5/9~6/4

三代目瀬川菊之丞(1751-1810)は江戸の俳優の最高位にランクされた女形で、多くの浮世絵師が描いています。現代で言えば、坂東玉三郎のような存在だったのでしょう。演じているのは能を原作とする歌舞伎舞踊「石橋」で、文殊菩薩の使いである獅子が石橋の上で踊り狂っている場面です。鳥居清長は、すらりとした長身の美人風俗画で有名ですが、この絵では牡丹の花に囲まれて踊る菊之丞のスピーディーな動きを活き活きと描いています。この絵から10年後、同じ菊之丞が踊る「石橋」を歌川豊国が描いた作品が、隣に展示されています。

『三代目瀬川菊之丞の石橋』歌川豊国筆 寛政10年(1798)  展示期間5/9~6/4

こちらは、踊っていた獅子が石橋の欄干に足をかけ、一瞬止まった場面を描いています。豊国は、演者の最も美しい瞬間を的確にとらえる役者絵の名手です。菊之丞も、10年前より貫禄がついて堂々としているようです。

なお、今回は展示されていませんが、写楽も菊之丞を何枚か描いています。そのうちの1枚、『三世瀬川菊之丞の田辺文蔵 妻おしづ』を、下記のリンクを開いて見てください。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032099

太い首、つりあがった目に大きな鼻。この絵を見た菊之丞は、きっとがっかりしたことでしょう。江戸時代の書物にも、写楽は「役者の似顔をあまりにそのまま描いたので、あってはならない姿に描いた。そのため、1年ほどで姿を消した*1」と記されています。清長や豊国は、役者が舞台上で役になり切った姿を描いたのに対し、写楽は役を演じる役者本人を描いたのかもしれません。明治時代に西洋人によって再発見された写楽は、肖像画家としては素晴らしいのですが、江戸の大衆が求めた浮世絵師にはなれなかったようです。

 

最後は、東洋館3室に立ち寄って『菩薩像頭部』を見てきました。

『菩薩像頭部』 中国 7~8世紀 展示期間 5/9~6/25

大谷探検隊が約100年前に中国のシルクロードで発掘してきたもので、とても美しい像です。仏像は今のパキスタンであるガンダーラに始まり、インド、中国、朝鮮、日本と伝わるうちに、それぞれの国民に似て変容していきました。この菩薩像は、様々な民族の血が混じったシルクロードの民が作ったのでしょうか。一部破損しているため想像が膨らむせいか、私には女優のアンジェリーナ・ジョリーの顔に似ているような気がしてきました。

 

今月は以上です。来月また上野に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『浮世絵類考』岩波文庫p.118より意訳

令和五年卯月 国宝「普賢菩薩像」他

東京国立博物館(トーハク)に行ってきました。今週展示替えのあった作品の中から、三作品を取り上げます。最初は本館国宝室の『普賢菩薩像』です。国宝指定絵画第1号、トーハクの列品番号もA-1です。5月7日まで展示されています。

普賢菩薩像 平安時代・12世紀 絹本着色 国宝

法華経によると、普賢菩薩は東方より多数の菩薩とともに釈迦如来のもとを訪れ、末法の世において法華経信者の守護者となることを宣言します*1。六本の牙を持つ白い象に乗って姿を表わした一瞬を表現したものと思われます。白象に比べて菩薩の姿は大きいのですが、不思議な浮遊感があり、象も重そうにはしていません。蓮華座のうえに座る菩薩の肌は白く、暗黒の背景から浮き上がって見え、静かに宙空を漂っているかの様です。頭上には花の天蓋が下がり、周囲には散華が静かに舞い落ちています。法華経は大乗仏典の中でも女性の救済を明確に説いた経典であったため、普賢菩薩もまた平安中期以降貴族の婦人たちの信仰を集め、いくつかの仏画、仏像が制作されています。その中でも、トーハク所蔵の「普賢菩薩像」は、繊細優美かつ耽美的であり、最高傑作と思います。昨年修理を終えたとのことで、細部が良く見えるようになりましたが、幾分暗くなったように感じたのは気のせいでしょうか。それにしても、総合文化展(常設展)で写真を撮りながらゆっくり鑑賞できるのは、ありがたいことです。

 

次の作品は、本館3室で展示されている『十六羅漢像(第一尊者)』重要文化財です。霊雲寺というお寺の寄託品のようですが、うれしいことに撮影禁止のマークはありませんでした。

十六羅漢像(第一尊者) 鎌倉時代・14世紀 絹本着色 東京・霊雲寺 重要文化財

左上に「第一賓度跋羅堕闍尊者(だいいちびんどばらだじゃそんじゃ)」といかめしいお名前が記されていますが、一般には「びんずる様」と呼ばれています。そういえば、先日善光寺から盗まれた「びんずる様」が戻ったとのこと、良かったですね。羅漢は釈迦の弟子のことで、その中でも優れた16人が死の間際にある釈迦から、この世に残って仏教を守り伝えることを託されたと言われています。仏や菩薩に比べて人間に近いせいか、たくさんの絵や彫像が作られ庶民にも親しまれてきました。この絵の第一尊者は、顔はいかめしいのですが、下の方では子供に手習いを教える弟子の姿が描かれ、どこにでも居るお寺のご住職のようです。背景には山水の水墨画が見えます。日本で水墨山水画が本格的に制作され始めたのは15世紀と言われていますので*2、14世紀に描かれたこの絵には中国のお手本があったのかもしれません。

 

最後は本館10室、北斎の『冨嶽三十六景・御厩河岸より両国橋夕陽見(おんまやがしよりりょうごくばしゆうひみ)』です。

葛飾北斎  冨嶽三十六景・御厩河岸より両国橋夕陽見 江戸時代・19世紀

御厩河岸(おんまやがし)とは、現在の蔵前一丁目の隅田川岸のことで、ここに幕府の馬小屋があったことから名づけられました。現在は厩橋がかかっていますが、江戸時代は対岸の本所まで渡し舟が出ていたそうです。この絵は、その隅田川東岸の本所の側から、西の方角を見た夕方の光景です。画面左に見える両国橋の上には、黒い点々が見えます。これは人の頭だそうです*3。これから打ち上げる花火見物に集まった人々の様です。そういえば、橋の下には見物客を乗せているのでしょうか、たくさんの船が浮かんでいます。しかし、渡し舟に乗る人々は関心がないようです。船頭はちょうど日が沈んで黒いシルエットになった、富士の方を見ています。船首には深く編み笠をかぶった男が、ひざを抱えて座っています。「花火見物など、あっしには関わりのないことでござんす」とでも言いそうです。ここの渡し舟は、明治5年の転覆事故で多数の死者が出たこともあって廃止されたそうです。江戸時代にも事故があったようです。そう言えば、この船の下だけ波が渦巻いています。北斎は、西方浄土に向かう三途の川の渡し船に見立てたのでしょうか。それにしても、静かで美しい絵です。

 

*1:大角訳『法華経角川ソフィア文庫p.400

*2:山下・高岸監修『日本美術史』美術出版社p.144

*3:日野原『冨嶽三十六景』岩波文庫p.116