令和七年神無月 運慶展と高村光太郎の「老人の首」他

 特別展「運慶 祈りの空間」を観に、東京国立博物館に行ってきました。

 本館中央の大理石の階段の奥の特別5室に、興福寺北円堂(ほくえんどう)の内部が再現されていました。

 北円堂は712年に建立されましたが平家の南都焼打ちで焼失し、1210年に再建されました。そのとき運慶とその息子たちが七体の仏像(弥勒菩薩座像、無著・世親菩薩立像、四天王立像)を作り、現在はすべて国宝に指定されています。今回借りた音声ガイドには、ナレーターの高橋一生東博の研究員の対談が含まれており、鑑賞するのにとても役立ちました。解説を聴きながら無著と世親の兄弟の菩薩像を間近で見ると、仏像というより生身の人間のように感じられました。二人は4世紀ころにインドに実在した僧ですので、運慶たちも他の諸像とは違う表現をめざしたのかもしれません。一通り見て回ったあと会場の隅で、音声ガイドに収録された興福寺の声明を聴きながらぼうっと立っていると、何ともいえない幸福な気分になりました。撮影不可のため、画像をご紹介できないのが残念です。

 本館2階では、国宝の「平治物語絵巻六波羅行幸巻」が展示されていました。運慶展の仏像同様、鎌倉時代13世紀に当時最高の絵師集団によって作られた傑作です。この巻では、源氏方に幽閉された二条天皇が女装して内裏をひそかに抜け出し、平家の六波羅邸に迎えられるまでが描かれています。順を追って見ていきましょう。

 深夜、二条天皇は牛車に乗って御所から抜け出します。門で警護の武士が怪しみ御簾を上げてのぞきこんでいます。右に立つ側近が「女房の外出だ」と言って助けます。天皇は17歳だったせいもあってか、女装は見抜かれず無事通り抜けました。 

 途中、平頼盛・重盛が来て、牛車は無事平家方の武士たちに迎えられます。

 つづく場面は、二条天皇の養母で当時の陰の実力者だった美福門院が、六波羅に向かっているところです。天皇と彼女が平家の六波羅邸に移ることにより、平家の勝利が確実となったのです。

 次は、六波羅邸の門前です。公卿・殿上人たちの牛車や従者がひしめき、平家の武士たちは天皇と門院を屋敷に迎え、これからの合戦を心おきながら戦えると安堵した表情です。

 本館3室では、2枚の仏画が眼を引きました。1枚目は重要文化財の「大威徳明王像」(平安時代・12世紀)です。大威徳明王は六つの顔六つの脚で、水牛に乗っています。彩色が良く残っていて、截金文様も美しい平安仏画の名品です。

 次の仏画は「春日赤童子像」(室町時代・16世紀)です。護摩をたく密教の儀式(修法)で使われたのか、画面がほとんど真っ黒です。ですから、ほとんどの人が素通りして行きます。でも、じっくりと肉眼と短眼鏡を交互に使いながら見ていくと、徐々に童子の姿が見えてきます。赤童子密教の制吒迦(せいたか)童子がもとになっているため、上半身は裸で首飾りや腕輪を身に着け、右手に杖をつきその上に左手を乗せ、しかめっ面で正面を見据えています。ふっくらとした上腕が見えてきて思わず微笑んでしまいましたが、周りの人からは奇異に見えたかもしれません。私にとっては、これが古い仏画を見るときの醍醐味の一つです。画像は露出を補正しましたので、その姿がご覧いただけるでしょう。首飾りや腕輪が見えますか。

 次は足利尊氏清水寺に奉納した、自筆の「願文(がんもん)」(南北朝時代・1336年)です。冒頭に「この世は夢のことくに候、尊氏に・・・」とあり、自らの魂が来世で救われることと、弟直義の幸福を祈っています。彼ら兄弟は後に戦い、弟は失意のうちに死んでいます。しかし、これを書いたときには、そんな将来は予想もしていなかったのだろうという、誠実さを感じさせる文字です。

            

 本館10室では、北斎の長女お美代の夫(後に離縁)だった柳川重信の肉筆画「縁先美人図」が印象に残りました。東博の解説に、「北斎よりも同時期の歌川派や溪斎栄泉の影響が指摘されている」とありました。この絵の描かれた江戸後期は、北斎歌麿風の美人より、顔や足の大きいリアルな女性が多く描かれました。はしょった着物が少し大きいようにも見えますが、なかなかきれいな作品です。お美代と重信の間に生まれた放蕩息子が晩年の北斎を苦しめましたが、その頃には二人とも亡くなっていたようです。

 今回最後にご紹介するのは、本館1階18室に展示されている高村光太郎の「老人の首」(大正12年(1923)・銅像)です。最近光太郎の評伝を読む機会があって、彫刻作品の実物を見たいと思っていました。

 光太郎は詩人でもありましたが、本業はあくまで彫刻だと書き残しています。詩は自分の彫刻が過度に情緒的にならないようにするための、安全弁だと述べています。そして、彫刻について「能の彫刻美」というエッセイに、次のように記しています。

彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。・・・元来動かない筈の彫刻といふ物体に動きを感ずるところに彫刻の持つ神秘感の物理的根拠がある。

 確かに、「老人の首」も正面から見るだけでなく、少し横に動いてみると別の表情が見えてきます。

 さきほどの運慶の仏像も、お寺で見るときと違い博物館では横からも後ろからも見ることができ、新しい美の発見がありました。仏像は信仰の対象だから、そんな見方はいけないという考えもあるでしょう。しかし、通常お寺から出るときにお坊さんが魂を抜く儀式をしており、仏さまもどこから見ても良いよということでお出ましになっているはずです。江戸時代以前から行われている出開帳も、そうだったのではないでしょうか。

 東博を出た後、今回は巣鴨駅近の都立染井霊園にある高村光太郎の墓に寄ってきました。この高村家の墓石の側面には、高村光雲、光太郎、智恵子の戒名が並んで刻まれていました。

 手を合わせた後、ちょっと寂しい墓石を見て、生花を買ってくるべきだったと反省しました。染井霊園のある地は昔は染井村と呼ばれ、ソメイヨシノの発祥の地とされています。来春の桜の咲くころに、生花をもってまた来ようと思いました。

 なお、染井霊園の隣にある慈眼寺の墓地には、芥川龍之介司馬江漢の墓がありました。二人の墓に詣でた後、帰宅の途に就きました。




 

 

 

 



令和七年長月 藤田美術館、大阪市立東洋陶磁美術館、万博他

 先月末大阪に行き、藤田美術館大阪市立東洋陶磁美術館司馬遼太郎記念館などの美術・博物館めぐりをしてきました。そのついでに、もうすぐ終わる大阪・関西万博をのぞいてきました。

 藤田美術館JR東西線大阪城北詰駅から徒歩1分、3年前にリニューアルオープンした建物は明るく、展示室の照明はやわらかく、落ち着いて作品を鑑賞できました。お目当ては何といっても日本に四点しかない「曜変天目茶碗」。国宝指定されている三点のうちの一つが藤田美術館にあるというので、いつか見たいと思っていました。幸いスマホなら撮影可ということでしたが、残念ながら私のスマホでは宇宙の星空のような輝きはとらえられませんでした。

 今回の展示テーマは「誂(あつらえ)」だそうで、いくつかの名品の箱次第が展示されていました。作品の由緒がわかる箱書きが重要であることは知っていましたが、持主が変わるごとに箱が作られ、以前の箱も受け継がれていくということには思い至りませんでした。次の写真が、曜変天目茶碗の箱次第です。

 

 旧安宅コレクションが収蔵されている大阪市立東洋陶磁美術館には、大阪メトロの谷町四丁目駅で降り、福沢諭吉が学んだ緒方洪庵適塾に寄り、重要文化財大阪市中央公会堂の前を通っていきました。大阪大学の前身でもある適塾は意外に広く、塾生が一人一畳をあてがわれて寝起きしたという2階の屋根裏部屋にも、垂直に近い階段を上がって見てきました。畳の上に寝ころんでいる若い男性がいたので、福沢らもそんな風にしてこの国の行く末を考えていたのかなと思いました。

史跡・重要文化財 適塾

重要文化財 大阪市中央公会堂

 大阪市立東洋陶磁美術館からは、次の3点をご紹介します。幸い写真撮影可能でした。まずは国宝の「油滴天目茶碗」です。内外の黒釉にびっしりと生じた油滴のような斑紋に、虹色に輝く光彩が輝いています。口縁は純度の高い金がはめられているとのことで、一層豪華さを増しています。ひょっとしたら中国では曜変天目より珍重されたのではないかと思いますが、なぜか中国にはどちらも名品が残っていないとのことです。

国宝 油滴天目茶碗

 次は「国宝 飛青磁花生(とびせいじ はないけ)」です。解説のプレートには「翠色の美しい釉色、茶褐色の鉄斑の絶妙な配置。まさに完璧な作品」とありました。

国宝 飛青磁花生

 確かに解説の通り完璧なのですが、私には近くにあったシンプルな「青磁瓶(せいじへい)」の方が美しく見えました。形も平凡で装飾もないのですが、見つめていると青磁の青のなかに心が溶け込んでいくようで、しばらくぼーっと見つめていました。

青磁

 司馬遼太郎記念館は、近鉄奈良線八戸ノ里駅から歩いて8分の住宅地にありました。10時の開館前に着いたのでしばらく門前で待っていました。門には司馬の本名である「福田」という表札がありました。自宅を保存し、書庫を安藤忠雄設計の記念館に建替えたものだそうです。蚊がたくさんいて腕に何か所か喰われてしまいました。司馬さんも喰われた蚊の子孫かなと、変なことを考えているうちに門が開きました。係りの人が蚊よけの団扇を貸してくれましたが、手遅れでした。
 

 庭を通って記念館に行く途中、司馬が死ぬ直前の状態で保存されている書斎をのぞいてよいということでしたので、写真を撮りました。椅子の後ろに按摩器のようなものがありましたので、作家は座り仕事なので腰が痛かったのかなと同情しました。

 記念館内では、高さ11メートルの壁面が書棚になっており、2万冊の蔵書が展示してありました。残念ながら撮影不可でした。

 

 ミュージアムめぐりのついでに行った万博会場は、地下鉄夢洲駅からすでに人であふれていました。残り会期が2週間となり、毎日20万人以上の人が詰めかけているそうです。長い列に並び、なんとかお目当ての中国のパビリオンに入ることができました。竹簡をイメージしたユニークな建物で、他のパビリオンが描く未来社会ではなく、日本との交流を含む中国の歴史をテーマとした展示でした。

 殷や三星堆の遺跡から発掘された青銅器の傍らに、東京国立博物館の東洋館にある「揺銭樹」に似た遺物が展示されているのが目を引きました。

 東洋館のものよりはるかに大きいので違うものかもしれませんし、複製品なのかもしれませんが、月の裏側から中国の宇宙船が持ち帰った石の展示より、私には興味深く感じられました。

 ついでに行った万博は、会期末の混雑と私自身の準備不足もあって多くのパビリオンは見られませんでした。しかし、明治の日本美術は欧米の万博に出品することによって発展したことを考えると、何はともあれその現代の姿である大阪・関西万博を見たということに満足して会場を去ることにしました。最後に大屋根リングの上から撮ったのが次の写真です。この光景が2週間後になくなると思うと、祭りのはかなさを感じてなりません。

 

令和七年葉月 科博の氷河期展と東博に涼を求めて

 あまりに暑い日が続くので、上野にしばらく足が遠のいてしまいました。国立科学博物館(科博)で「氷河期展」をやっているので、少しは涼しさを感じられるかと思って足を運びました。

 特別展の会場に入ると、さっそくマンモスと対面です。

 今回の展示では、化石、骨格模型、復元模型が並べて展示されているものが多いようです。骨格模型は迫力があり、復元模型は親しみが感じられます。その意味では、マンモスよりもホラアナグマの展示の方が興味深く感じました。

 2万年前までヨーロッパや西アジアに生息した熊で、洞窟から多くの骨が発掘されているそうです。大きなものは1トンにもなった熊ですが、両目の上が出っ張っていて愛嬌のある顔が復元されていました。立ち上がっている子熊の復元模型はちょっとやりすぎかとも思いましたが、子供達には人気があるようでした。ただし、ホラアナグマの絶滅には人間もかかわった可能性があるようで、今も昔も熊と人間の共生は難しい問題です。

 4万年前に絶滅した、ネアンデルタール人の復元模型もありました。

 今まで写真や絵で見た姿に比べ愛嬌のある、太っちょのおじさんの姿でした。発掘した骨から復元したのでしょうが、ネアンデルタール人にもいろいろな人がいたのでしょう。私たちもうっかり化石になって未来の人類に復元されるのは、かんべんしてほしいと感じました。館の解説によれば、ネアンデルタール人ホモサピエンスとも交雑し、現代人の血の中にもその痕跡を残しているようです。

 彼に比べ、現生人類につながるクロマニヨン人はハンサムに復元されていました。

 日本にもナウマンゾウをはじめとして、氷河期に絶滅したたくさんの動物がいたとのことです。氷河期では海面が今より低く北海道は大陸と続いた半島になっており、多くの動物が移動してきたとのことです。

 次の画像は、岩手県花泉遺跡で発掘されたハナイズミモリウシです。

復元模型はありませんでしたが、解説のパネルに絵がありました。バイソンの仲間で、こんな動物が2万年前には日本にもいたのですね。帰宅後調べたのですが、花泉遺跡は石器時代の人々が狩猟した動物を解体した場所の跡のようで、定住の痕跡はないそうです。縄文時代以前の日本はまだまだ謎が多いようです。

今回展示されている化石と全身骨格模型は、岩手県立博物館の所蔵品とのこと。昨年同博物館に行ったのですが、岩手山が良く見えるとても素敵な博物館でした、

 国立科学博物館をあとにして、真夏の太陽を浴びお隣の東京国立博物館に向かいました。猛暑はたいへんですが、氷河に閉じ込められて暮らすよりはましかもしれません。それにしても早く秋が来てほしいものです。

 東博ではまず、怪談や幽霊の絵が特集されている本館10室の浮世絵を見に行きました。目を引いたのは、歌川国芳の「百物語化物屋敷の圖 林家正蔵工夫の怪談」でした。

「百物語」は夜中に怖い話を参加者が順に語り、百本用意した蝋燭を一話ごとに消していき、全部語り終えて真っ暗になると本物の化物が現れるというものです。この国芳の絵は、百話語り終えてどっと化物が出てきたところを描いたのでしょう。化物にびっくりする人々が国芳らしく滑稽に描かれ、にぎやかな画面になっています。蝋燭が消えて本当は真っ暗なはずですが、それでは絵にならないのでしょう。難しいことを考えずに見れば楽しい絵です。

 それに比べて、広重の「名所江戸百景・王子装束ゑの木 大晦日の狐火」は静かな絵です。大晦日の夜、王子稲荷の大榎のもとにたくさんの狐が集まり、宮廷女官の装束に着替えて参詣したという言い伝えに基づく作品です。ひんやりとした、夜の冷気を感じます。

 本館11室には、浄瑠璃寺から寄託されている国宝の「広目天」像が展示されていました。たくましく凛々しい姿でありながら、衣や鎧に繊細な截金(きりがね)や彩色が施されています。眼光には圧倒的な迫力があり、その視線の正面に立つと身がすくむ思いがあり、少し涼しくなりました。

 14室では「動物の仮面」という特集展示があり、その中では「能面 野干(やかん)」が印象的でした。野干というのは狐に似た想像上の獣で、能では「殺生石」という演目で、近づく全ての生き物の命を奪う石になった野干の精霊の役に用いられるそうです。恐ろしい顔というより、見つめられると命を吸い取られるような表情です。

 15室には、明治時代の東京国立博物館を描いた浮世絵が興味を引きました。三代歌川広重による「東京名所上野公園内国勧業博覧会美術館図」です。明治時代にジョサイア・コンドルの設計で建てられた東博の本館は、大正12年関東大震災で倒壊してしまいました。白黒の写真は東博に展示されているのですが、こうしてカラーの浮世絵で見てみると時代の息吹を感じます。

 次の画像は、同じく三代広重が東博本館の内部を描いた同名の作品です。当時のヨーロッパの美術館同様、壁の上の方まで絵が展示されているのは時代を反映しているのでしょうか。どちらの絵にもたくさんの外国人が描かれています。

当時の日本は外貨を稼ぐために、日本の美術品を海外に売りこもうとしていました。浮世絵はそのための包み紙としてヨーロッパに送られ、図らずも大ブームになったという話の真偽はともかく、欧米のジャポニズムを広めるきっかけの一つに勧業博覧会と東博も貢献したことは間違いないでしょう。今、東博本館は外国人であふれています。その頃の願いが今日実現したと言えるのかもしれません。

 本館裏の庭園の池には、蓮の花が咲いていました。科学博物館と東博を回って足が疲れましたので、しばし花と庭園を眺めてから家路につきました。

 

 

 

 

 

 

令和七年皐月 「相国寺展」と関連作品

 上野の藝大美術館(東京芸術大学大学美術館)で「相国寺展」を観てきました。5月25日で終了のためか、けっこう混んでいました。

 室町時代1382年に足利義満によって創建された相国寺に関連する作品が、雪舟から応挙、若冲に至るまで多彩な作品が展示され、見応えがありました。特に、雪舟が描いた「毘沙門天像(重要文化財)」にはびっくりしました。繊細かつ豪快な作品で、雪舟もやはり仏画も描く画僧だったのだなと改めて思いました。残念ながら全作品撮影禁止でしたが、ネット上に昨年愛知県美術館相国寺展が開催された時のチラシがありましたので、他の作品とあわせてごらんください。

https://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/item/Shokokuji_A3_long.pdf

 

 東博に寄り、相国寺展関連作品を探したらけっこうありました。まずは、雪舟の師匠で相国寺の画僧だった周文のものと伝わる15世紀の「山水図」が、本館3室に展示されていました。これは詩画軸という形式の作品で室町時代禅宗寺院で流行したものだそうです。画僧が描いた絵の上に僧が漢詩を記したもので、この絵でも竺雲等連(じくれんとうれん)という相国寺の高僧による賛があり、その名前も記されています。この時代、画僧の地位は低く絵を描いた周文の名は記されていません。しかし、小画面のなかに緻密でしかも広大な世界を描いた腕は確かです。現代の我々は周文らの絵をめあてに観て、ついでに賛を書いた僧の名を知りますが、書かれた当時は逆だったのでしょう。

伝周文筆、竺連等連賛「山水図」室町時代・15世紀

 絵の中央には小さく三人の人物が描かれています。

 山奥の草屋の主を友人たちが訪ねたのでしょうか。彼らの一人のなったつもりになると、絵の中に入り込んだような気がしてきます。等連の漢詩の末尾に「日暮れて船の来るのを待つ」とありますが、なるほど湖には船が浮かんでいます。

 「山水図」の向かいには、同じく周文筆と伝わる大きな「四季山水図屏風」が展示されていました。

伝周文筆「四季山水図屏風」重要文化財 右隻 

 この絵でも、右端にロバとともに歩む二人の人物がいて、四季の風景を織りなす広大な屏風の世界に案内していってくれます。

 7室には応挙の「朝顔狗子図杉戸」が展示されていました。応挙ならではのかわいい子犬が描かれており、東博でも人気の作品のひとつです。

丸山応挙筆「朝顔狗子図杉戸」江戸時代・天明4年(1784)

 応挙は相国寺の113世住持だった大典顕常と交流があり、今回の相国寺展でも「七難七福図巻」(重要文化財)という、ありのままの世界を正確に描くという応挙のイメージを超えた傑作が展示されており、長い列ができていました。

 大典顕常は応挙の他にも多くの当時の文化人のパトロンのような人物でしたが、何といっても伊藤若冲との関係が一番でしょう。若冲という画号自体、大典が命名したとされています。相国寺展では代表作の一つである「鹿苑寺大書院障壁画 葡萄小禽図」他、多数の作品が展示されていました。東博本館7室には、彼の「玄圃暚華」がありました。

伊藤若冲「玄圃暚華のうち水葵・糸瓜」江戸時代・明和5年(1768)

  大典と親しかったもう一人の画家、池大雅の「白雲紅樹図」(重要文化財)が相国寺展では展示されていたようですが、前期展示だったため、残念ながら見逃してしまいました。その代わり、東博で「酔李白図」を見ることができました。

池大雅筆「酔李白図」江戸時代・18世紀

 大酒のみの詩人李白と、彼を背後から支える童子たちが、まるで行列をして行進しているようなほほえましい絵です。絵の上には、杜甫が遠く離れて住む先輩詩人である李白を思って作った詩「春日憶李白(春の日に李白をおもう)」が、書の名人でもあった池大雅によって書かれています。書体と絵がとてもマッチしていて、良い意味での自画自賛になっています。

 相国寺展では、「同仁斎書画展観目次」という資料が展示されていて、明和3年(1766)と寛政元年(1789)に相国寺の分院である鹿苑寺金閣寺)で、相国寺の寺宝の展示会があったことが記されています。若冲、応挙、大雅らも観に行って学んだのではないかと解説がありました。今回藝大美術館で相国寺展が開かれたことが、未来の日本美術の発展に寄与するとよいですね。

 最後に、相国寺展とは全く関係ないのですが、あまりに美しい鍋島がありましたので、しばし見とれてから帰宅しました。

「色絵柴垣図大皿」鍋島 江戸時代・17世紀

 

 

 

 

令和七年卯月 特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」他

 4月22日から東京国立博物館で始まった、特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」に行ってきました。

 平成館の受付で、写真撮影可能かを確認したところ第4展示室のみ可能とのことで、カメラを持ってエスカレーターを上りました。

 NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺し」の主人公、横浜流星がナレーションをしている音声ガイドを借りました。最初の展示室は、吉原のメインストリート、仲の町の桜並木が再現されていました。吉原では毎年春になると桜の木が移植され、花が終わると撤去されていたとのこと。この桜並木もNHK大河ドラマで使用したセットを持ってきたそうです。ガイドを聴きながら歩いていくと、ドラマの世界に入り込んだような気がしました。

 冒頭に展示されていたのは、鳥文斎栄之の「隅田川図巻」でした。写真撮影不可でしたが、4年前に本館10室で展示されていたときの画像は次の通りです。

鳥文斎栄之隅田川図巻」(部分)2021年本館にて撮影

 今回改めて観てみると、補修したのか、展示の仕方によるのかわかりませんが、前より状態が良くなっているように感じられました。

 そのあとの展示は蔦屋重三郎の生涯をたどりながら、関連する作品を鑑賞できる構成になっていました。普段あまりじっくり見ない冊子類(狂歌本や黄表紙)も、ドラマの登場人物、例えば朋誠堂喜三次役の尾美としのりの顔を思い浮かべながら見ていると、けっこう楽しめました。

 そして、写真撮影可能な第4室に入ると、蔦屋重三郎が生きた天明寛政期の江戸の街が再現されていました。

 なかでも、蔦重が吉原大門のそばで始めた本屋「耕書堂」が再現されていたのは驚きでした。ただし、大きな間口の立派な店でしたので、彼が本格的に版元として活躍した日本橋移転後の店かもしれません。どこかに書いてあったのかもしれませんが、確認し忘れました。

 店内には、ドラマで使用された小道具の浮世絵や黄表紙が展示されていました。摺り上げられたばかりの浮世絵、綴じられたばかりの黄表紙を、当時の店の中で見られるのは江戸好きの人間にとっては至福のひと時でした。

 

 特別展の最後、蔦重と横浜流星が見送ってくれました。

 特別展では撮影できなかった浮世絵を見ようと本館10室に行くと、写楽の大首絵が展示されていました。

東洲斎写楽「初代尾上松助の松下造酒之進」寛政6年(1974)

 実はこの作品、もっと状態の良い重文指定の版が特別展の後期で展示される予定ですので、東博は2枚持っているようです。雲母摺(きらずり)の背景も傷んでいますが、この人物は二人の娘を残して殺されるうらぶれた浪人ですので、かえって哀愁を感じました。

 歌麿の作品も何作か展示されていました。なかでも「寄辻君恋(つじぎみによるこい)」は歌麿の傑作のひとつです。扇の中に書かれた歌は、「立ちあかす 恋路のやみの くろぬのこ かおのそかるる 身こそつらけれ」。

喜多川歌麿「寄辻君恋」

 寛政8年ごろの作品で、版元は蔦屋ではなく松村辰右衛門。蔦重が写楽を売り出した寛政6年頃から、彼が手塩にかけて育てた歌麿との関係がなぜか疎遠になってしまいます。このことが大河ドラマでどのように描かれるか、楽しみですね。

 ところで、本館の展示は4月から、従来の「総合文化展」から「東博コレクション展」に名称変更されました。毎月どこかの展示室で展示替えのある本館の展示にふさわしい名前だと思います。

 それとは関係ないかもしれませんが、リニューアルのためしばらく閉室し、今月8日から展示を再開した11室の入り口近くに、高さ3メートルの大きな金剛力士像が展示されていました。

金剛力士立像」平安時代・12世紀 木造、彩色

 あまり洗練された印象ではありませんが、武骨でたくましいお像です。その奥に、洗練されたかわいらしい仏像がありました。

文殊菩薩立像」鎌倉時代・13世紀 木造、金泥塗・玉眼

 文殊菩薩といえば獅子に乗ったいかめしい姿という印象がありますが、この像は童形です。文殊はお釈迦様の弟子の中でも知恵第一と言われた方ですが、その知恵が純粋無垢な子供の性格に例えられることから、童形の像があるようです。大人の悪知恵は本来の知恵ではない、ということでしょう。

 平成館の企画展示室では、「新版画 — 世界を魅了する木版画」を特集していました。 その中で、2枚の作品が特に印象に残りました。

樋口五葉「髪梳ける女」大正9年(1920)

  江戸時代の浮世絵とも違い、現代でもない、大正時代や昭和初期の良き時代を感じさせるさわやかな絵です。この絵は、日本の新版画を愛したアップルの創業者スティーブ・ジョブズが、1984年にマッキントッシュの宣伝用写真に使っていますので、時代を超越した美があるのかもしれません。

 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230522/k10014074811000.html

川瀬巴水「旅みやげ第二集 佐渡相川町」大正10年(1921)

 同じくジョブズが愛した川瀬巴水の作品の中でも、夜を描いた作品には何とも言えない独特の味わいがあります。中央に描かれた老人と子供の心になって作品の中に入り込んでみると、二人のそれぞれに別の世界があることが感じられます。

 

令和七年弥生 「花下遊楽図屏風」の謎と千姫の手紙 他

   昨日、東京国立博物館に行ってきました。まずは本館2階の国宝室に行き、狩野長信の「花下遊楽図(かかゆうらくず)屏風」を見ました。

狩野長信「花下遊楽図屏風」左隻 江戸時代・17世紀 国宝

 左側の屏風には、中央に風流踊り、右手に男装の女性たちが刀を持って舞う歌舞伎踊りが、満開の桜とともに描かれています。中央左の六角堂の上では、赤い着物の少年が楽しそうに踊りを眺めています。脇には護衛の侍、下には乗ってきた駕籠が並んでいますので、きっと高貴な少年なのでしょう。

同上 右隻

 右側の屏風の中央は、残念なことに関東大震災で焼失してしまったそうです。幸い残された写真をもとに作られた高精細の複製品が、1階の特別3室に展示されていました。

同上 高精細複製品

 これを見ると、中央には酒宴を楽しむ女性たちが描かれていたことがわかります。赤い打掛をまとった貴婦人が、花見の中心人物ということでしょう。

 この豪華な花見を主宰している貴婦人は淀君で、少年は秀頼という説があるようです。そうすると、少年の左に座る、赤い着物のちょっとおませな少女は千姫ということになるのでしょうか。

同上 左隻(部分)

 しかし、この説には現在では研究者の多くが否定的なようです。豊臣家との関係を続けた狩野山楽は、徳川幕府からにらまれ助命嘆願しなければなりませんでした。この絵の筆者の長信は狩野派の重鎮の一人として真っ先に家康に拝謁し、徳川家の御用絵師となっていますので、彼が淀君や秀頼の栄華を描くことはありえないと考えるのが普通でしょう。それでは、彼は誰を描いたのでしょうか? 面白い説なのに残念だなあと思いながら5室まで行くと、なんと千姫の手紙が展示されていました。

千姫筆「消息」 江戸時代・17世紀

 女性らしい流麗な筆で、3行目に「あやめのめでたさ」とあることから、端午の節句の礼状であると東博の解説に書かれていました。7歳で秀頼と結婚し18歳で死別した千姫が、69歳で亡くなるまでどんな気持ちでいたのか。勝手に「花下遊楽図」の少女を千姫に仮託して、そんなことを考えてしまいました。

 8室では、「伊勢物語絵巻」が展示されていました。

住吉如慶「伊勢物語絵巻 巻第二」(部分)江戸時代・17世紀

 家に帰ってから確認したところ、巻二の冒頭部分は在原業平が知人宅を訪ね花を見ながら和歌をやりとりする場面でした。私の家の桜があなたを待って咲いたという主人の歌に対する業平の返歌は、「今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし 消えずはありとも花と見ましや」というものでした。今日私が来なければ明日は雪のように散ってしまったことでしょう、という内容の歌です。美しい文字と絵が楽しめました。

 9室では「能 海士(あま)に見る面・装束」が企画展示されていました。「海士」は、息子の出世のために自分の死と引き換えに龍神に奪われた宝珠を取り戻した母(海女)が、霊となって大臣となった息子に会いに来る話です。次の面は、白目に金泥を施した「泥眼(でいがん)」という種類の作品です。怪しく、そして虚ろな死者の顔です。 

「能面 泥眼」江戸時代・17世紀 奈良・金春家伝来 重要文化財

 10室では、桜にちなんだ浮世絵が展示されていました。その中から、歌川国貞の「北廓(ほっかく)月の夜桜」を選びました。江戸の北にあって堀のようなどぶで囲われた吉原は、「北廓」とも呼ばれた不夜城でした。春になると咲いたばかりの桜の木を移植し、散ると撤去されたそうです。大門の向こうに忽然として現れた桜並木を、国貞は人々の賑わいとともに描いています。

歌川国貞「北廓月の夜桜」江戸時代・19世紀 錦絵

 東洋館では、貴人の墓に収められた唐三彩の瓶を見ました。

「三彩貼花龍耳瓶(さんさいちょうかりゅうじへい)」中国 唐時代・8世紀 重要文化財

 どうしてこんなに美しいものを墓に収めたのかと現代人である私は思いますが、古人はきっと「美しいからこそ収めたのだ」と言うでしょう。次の作品は陶製の牛車です。墓に収められたものにしては、馭者も牛も笑っているように見える印象的でした。死者の国もこの世とつながった、生活のある世界と考えていたのかもしれません。

「三彩牛車・馭者」中国 唐時代・7世紀

 最後に法隆寺館に行き、今月国宝への一括指定が答申された伎楽面を見てきました。仮面で初めて国宝指定されたとのことですが、今まで指定されなかったのが不思議です。その話題のせいか、他館へ貸し出されている作品が多いようです。

 酔胡従も、国宝指定を喜んで笑っているかのようでした。

「伎楽面 酔胡従(すいこじゅう)」飛鳥時代・7世紀

 法隆寺館を出ると、雨のなか黒門の周りの桜の、白とピンクの色彩が目に飛び込んできました。来週は、上野の桜は満開になることでしょう。

 

令和七年如月 東博特別展「旧嵯峨御所 大覚寺」他

東京国立博物館で「大覚寺」展を観てきました。

 大覚寺は、平安初期の嵯峨天皇(786-842)の離宮を改めた寺院で、来年開創1150年を迎えるそうです。嵯峨天皇空海橘逸勢とともに三筆と呼ばれた書の名人でもあり、文化的で安定した治世を築いたといわれています。仏像や書は撮影不可でしたが、ありがたいことに今回の展示の目玉である障壁画は撮影可能でした。

 まずはかわいらしい兎の絵が目に飛び込んできました。

「野兎図(正寝殿東狭屋の間)」部分 渡辺始興筆 江戸時代 重要文化財

 渡辺始興(1683-1755)が、兎年生まれで幼くして大覚寺に入った門跡(高貴な生まれの住職)を慰めるために、屋内の縁側を飾る障子の板の部分に描いたものだそうです。上記の写真はそのほんの一部で、たくさんの兎が様々なポーズで描かれていました。上の画像の黒い兎は寂しくて泣いている幼い門跡で、他の兎たちが慰めようとしているのかなと勝手に空想しました。

 次の画像は、門跡の御座所(居室)の中でも最も格式の高い「御冠の間(おかんむりのま)」を再現した展示で、本物は非公開だそうです。

 そして、上記画像の右側の障子の下部に描かれた山水画が、次の作品です。

「山水図(正寝殿御冠の間)」狩野山楽筆 重要文化財

 作者の狩野山楽(1559-1635)は、豊臣家との関係が深かったため他の狩野派の絵師たちが江戸に移った後も京都に残り、いわゆる京狩野の始祖となった人です。大きな絵ではありませんが、左中央に大きな余白をとり広大な世界を表現した山水画です。

 特別展の最後の部屋にはたくさんの障壁画が展示され、壮観でした。

ここで目に付いたのは、入口の看板にも採用された狩野山楽の「牡丹図」でした。金地の上に多様な牡丹が豪華に描かれていました。

「牡丹図(宸殿牡丹の間)」部分 狩野山楽筆 重要文化財

同上

 一つの部屋を牡丹で埋め尽くすというのは、壁面全てをモネの睡蓮の絵で飾ったオランジュリー美術館を連想しました。また、いわゆる漢画の伝統を汲む狩野派の特徴とはちょっと違った趣をこの画題は山楽に与えてくれたようで、後の京狩野の傾向を先取りしているようにも思えました。絵を一望できるソファもありましたので、豪華な牡丹の供宴にしばし時を忘れました。

大覚寺」展の最後の方に、気になる襖絵がありました。

「柳に燕図(宸殿紅梅の間)」 重要文化財

 すさまじい春の嵐が吹いて、柳の枝が折れんばかりにしなり、二羽の燕も懸命に羽ばたいています。

同上(部分)

 解説によれば、春真っ先に芽吹く柳と、夫婦仲良く子育てする燕はおめでたい画題とのことですが、なにもこんなに強風を吹かせなくても良いのにと思いました。ただ、先日吹いた春一番でも吹き飛ばされそうに歩いていた人がたくさんいましたから、自然の姿をリアルに描いた絵なのでしょう。

 特別展の会場を後にして、本館14室の特集展示「おひなさまと日本の人形」を覗いてきました。その中で、江戸時代後期の京都の人形細工師末吉石舟の「三人官女」が目を引きました。

三人官女」末吉石舟作 江戸時代・文政10年(1827)

 いかにも楽し気な三人の女性像ですが、生人形のようにリアルでちょっと不気味です。後ろに見えるお雛様(「古今雛」)を完全に食ってしまっています。関西のかしましいおばさんたちのようにも見えますね。

 

 最後に、本館10室で私の大好きな江戸後期の浮世絵師、菊川英山の肉筆画を観てきました。

「雪月花図」菊川英山筆 江戸時代・19世紀

 英山(1787-1867)は溪斎栄泉の師匠で、歌麿の世代と幕末の絵師たちの間をつなぐ絵師のひとりです。でも、右の雪図の女性は、大正昭和期の鏑木清方や伊藤深水を思わせ、思わず近くで見入ってしまいました。

 寒い日が続いて、大雪で除雪が大変な地域がたくさんあるようです。幸い東京は今のところほとんど雪は降っていません。雪の中でこんな江戸の美人に会えたらなあと、思わず不謹慎なことを考えてしまいました。