令和六年卯月 「法然と極楽浄土」展ほか

今日から東京国立博物館で、「特別展 法然と極楽浄土」が始まりました。

修理後初公開の「国宝 阿弥陀二十五菩薩来迎図」ほか、すばらしい作品が並んでいました。私が感動したのは、巨大な国宝「綴織當麻曼荼羅」を見られたことです。褪色が進んでいて、図録の画像を見ても何が描いてあるのがよくわからないのですが、単眼鏡で細部を確認してから全体を見ると、極楽浄土が浮かび上がってきます。幸い展示初日のせいか人も少なく、15分ほどこの絵の前で見上げていました。特別展のためほとんどの作品が撮影禁止でしたが、江戸時代に法然の生誕地(香川県)に建てられた、浄土寺の「仏涅槃群像」だけは撮影可でした。若冲の作品に似た白象のいる、動物群像を撮ってきました。

本館2階の国宝室には、聖武天皇が書いたと伝わる経典『賢愚経残巻』が展示されていました。聖武天皇は「長屋王の変」に続く政変やそれに続く天然痘の大流行に悩まされ、5年間も彷徨するといった不安な人生を送った方ですが、この経典の書は雄渾で迷いが感じられません。平安な世への願いを込めて、一心に書かれたのでしょう。

国宝 賢愚経残巻(大聖武)伝聖武天皇筆 奈良時代・8世紀 

7室には岩佐又兵衛の「故事人物図屏風」が展示されていました。画題は明らかではないとのことで、一見何をしているのかよくわからない絵です。

故事人物図屏風 伝岩佐又兵衛筆 江戸時代・17世紀 

案内板には能の「蟻通し」が候補の一つと書いてあり、調べてみると次のようなお話でした。平安時代歌人紀貫之が馬に乗ったまま蟻通神社の前を通り過ぎようとすると、たちまち曇り雨が降り、乗っていた馬が倒れてしまいます。そこで、通りかかった里人に神の名を聞いて歌を詠んで献上すると馬は回復します。実は里人は、蟻通明神の神霊だったという伝承です。その話を知って改めてこの絵を見ると、合点がいくような気がします。又兵衛は昔の登場人物を当世風に描いたので「浮世絵の祖」とも呼ばれますが、左隅上のしもぶくれの顔の女性たちを見ると、まさに又兵衛ワールドです。

上記部分図

8室には岸連山という画家の「猪図」がありました。遠くから見ると単なる黒いかたまりに見えるのですが、近くによると疾走する猪の毛が竜巻のように渦を巻いています。あまり速いので、向こう側が残像として見えているような気さえします。とてもリアルな絵です。最近は猪が街中に出て来て迷惑をかけることがありますが、江戸時代もやはりそうだったのでしょうか。

猪図 岸連山 江戸時代・19世紀

10室にも、歌川国芳による猪を退治する少年の絵がありました。

本朝水滸傳豪傑八百人一個・大谷古猪之助 歌川国吉筆 江戸時代・19世紀 錦絵

主人公は古猪之助(こいのすけ)という少年ですが、「鬼滅の刃」にも猪の面をかぶった伊之助という登場人物がいましたね。

 

猪続きでは味気ないので、広重の藤の花を眺めて帰ることにしました。

名所江戸百景・亀戸天神境内 歌川広重 江戸時代・安生3年(1856)

上野の桜も終わりつつあります。次は藤の花の季節です。

 

令和六年弥生 東京国立博物館「博物館でお花見を」

東京国立博物館では3月12日から4月7日まで、「博物館でお花見を」をテーマに桜にまつわる作品をたくさん展示しています。まだ花は咲いていませんが、展示室の中でお花見に行ってきました。

 

お花見の前に、3月3日は桃の節句、本館14室では毎年恒例の特集「おひなさまと日本の人形」が展示されていますので、ちょっとのぞいてきました。そこでびっくり、今やひときわときめく人、大谷翔平のボブルヘッド人形によく似たお顔の人形がありました。

『嵯峨人形 首振り』江戸時代・17世紀 木彫、彩色

これは、江戸中期から幕末まで京都嵯峨のあたりで作られた「嵯峨人形」と言って、木彫に金泥極彩色をほどこした美しい人形です。京都の仏師たちが余技で作ったと言われており、首を振ったり舌を出したりするものもあったそうです。この人形も「首が前に傾くごとに舌が飛び出る仕掛け」になっているとのことで、実際に見てみたいものですね。大谷のボブルヘッド人形はさすがに舌は出さないでしょうが、洋の東西を問わず首振り人形は見る者に親しみを感じさせます。

 

さて、12日に展示替えがあった本館10室に行き、さっそく浮世絵でお花見です。江戸の花見の名所と言えば、上野、吉原、墨田川堤、飛鳥山等が有名でした。

まずは菱川師宣が描いた、上野の花見から見ていきましょう。

『浮世人物図巻 上巻(部分)』伝菱川師宣 江戸時代・17世紀 絹本着色

上野の桜は寛永寺を創建した天海大僧正が、江戸時代初期に吉野の桜を移植したのが始めと言われています。浮世絵のパイオニア師宣が描いた江戸っ子の花見は、現代とあまり変わらないようです。絵の左の方で酔っぱらって踊っている人々の中に、「見返り美人」に似た女性も見えます。

次は吉原です。

『東都名所・吉原仲之町夜桜』歌川広重 江戸時代・19世紀 錦絵

吉原の桜は、花見のシーズンだけ桜の木を植樹したものです。江戸の郊外の田んぼの中に人工的に作られた吉原は、季節ごとに様々なアトラクションを繰り広げる大人のディズニーランドのような町でした。広重が描く仲の町は吉原のメインストリートで、高級な引手茶屋が軒を並べていました。遠近法を強調した街並みの上に大きな月が掛かり、桜並木の前を花魁(おいらん)が歩いていきます。

 

次は、浅草から見て東の方角、墨田川の向こうにあった三囲神社の桜です。と言っても桜より美人が中心の浮世絵版画、江戸後期に活躍した浮世絵師、歌川国貞(三代歌川豊国)によるシリーズ『江戸名所百人美女』からの一枚です。

『江戸名所百人美女・三囲』歌川国貞(三代豊国)1857年 錦絵

中央に国貞が美人画を、画面左上の四角い枠(小間絵)内に歌川国久が江戸の名所を描いています。美人画と風景画を一枚に収めたお得な版画です。国貞は生涯に1万点以上の作品を描いたといわれます。美人と小間絵の風景を組み合わせたら、いくらでも作品ができると版元が考えた手抜きのシリーズかと思ったのですが、この絵をみるとそうでもないようです。江戸時代、墨田川はたびたび氾濫したのでだんだん堤防が高くなり、三囲(みめぐり)神社の鳥居も浅草からは上の部分だけちょこんと見え、江戸っ子たちはそれを風流と感じたようです。この絵でも、美人の後ろの男は傘の向こうに、三囲神社の鳥居のように、ちょこんと左腕だけを覗かせています。

 

10室には江戸時代の着物も展示されていますが、残雪に桜が咲く嵐山の風景を刺繍で描いたものすごい作品が展示されていました。

『小袖 紅縮緬地嵐山風景模様』江戸時代・19世紀 縮緬(絹)、刺繍

こんな真っ赤な着物を、どんな人が着こなしたのでしょうか。江戸中期の京都の商家の女性は、貴族や大名の婦人たちと着物で張り合ったと伝わりますが、色彩の魔術師マティスもびっくりするような派手好みです。しかし、刺繍された風景には典雅な趣があり、じっと見ていると着物というより絵画を鑑賞しているような気もしてきました。

 

本館1階12室では、吉野山の桜を蒔絵で描いた渋い小箪笥がありました。

吉野山蒔絵小箪笥』梶川作 19世紀 木製漆塗

表面には金銀の蒔絵や切金を使って流水と桜の巨木を描いています。桜の枝は天板に及び、引き出しの把手には桜の花をかたどった銀の金具が用いられています。漆黒の闇の中に浮かび上がる黄金の桜は、豪華な夜桜見物に誘ってくれます。

 

江戸、京都、吉野と花見見物を終えて、次は国宝室で『群書治要(ぐんしょちよう)』を観てきました。

『群書治要 巻二十六』平安時代・11世紀 彩箋墨書

『群書治要』は治世の参考になる文章を集めて唐の時代に作られた文集ですが、中国では宋の時代に散逸し失われたとのことです。日本には奈良時代にもたらされ、東博所蔵の作品は平安時代中期の作で、現存する最古の写本とのことです。元は公家の九条家に伝わったもので、昭和20年の空襲の際に焼け残った土蔵の中に保管されていたものだそうです。展示されているのは巻二十六、冒頭に「魏志下」の文字が見えます。漢文を訓読する際に字の四隅に朱で付けられた「乎古止点(をことてん)」やフリガナが見えますので、奉納されるための経典などとは違い、実際に読まれていたことがうかがえます。まさに長い年月を読みつがれ生き残った貴重な国宝ですね。

 

最後に、平成館の考古展示室で小さな蔵王権現像を観てきました。

『押出蔵王権現像』奈良県天川村 大峯山頂遺跡出土 平安時代・10~12世紀

蔵王権現は日本の山岳信仰の中で生まれた独自の権現で、三つ目で忿怒の形相をし,右手を高くあげて三鈷杵 (さんこしょ) を持ち,左手は腰に付け,左足は大地を踏み,右足は空中に踊らせています。吉野を中心に恐ろしい姿の蔵王権現像がたくさんありますが、この像は何ともかわいらしい作品です。鍍金されていますが頭部には緑青が青く浮き出、髪を染めたやんちゃな若者のようです。空中につるされ、上方から照明が当てられ下に影が映っていますので、さっそうと空中を翔けているようです。

 

愛らしい蔵王権現に見送られて、東博を後にしました。次回は今月末、本物の花を観に上野に来る予定です。

 

 

令和六年如月 雪の東博と「中尊寺金色堂」展

作日、東博に行ってきました。前日の雪が少し残っていて、人出は少ないかと思って来たのですが、特別展「中尊寺金色堂」が開催されている本館特別5室は満員の盛況でした。

金色堂の中央壇上の国宝の仏像11体が、寺の外で揃って公開されるのは初めてだそうです。中尊寺に行っても、仏像群は金色堂の奥に正面からのぞき見ることしかできませんので、間近で、しかも四方から拝観できる機会はとても貴重です。「阿弥陀如来坐像」は、以前平泉で見た時の印象では端正だけれど平凡な象だなと思っていたのですが、近くで見た本物は深遠な静けさを感じる素晴らしいものでした。他の諸像も含め、図録やポスターでは伝わらない美と荘厳さが確かに感じられました。作品の写真撮影はできなかったのですが、出口近くに置かれた金色堂の模型だけは撮影可能でした。たくさんの人が撮っていましたので、人の流れの隙をねらって撮影しました。

 

本館1室には、珍しい四角形の銅鏡、「瑞花狻猊方鏡(ずいかさんげいほうきょう)」が展示されていました。

瑞花狻猊方鏡 京都市西京区山田桜谷町出土 奈良時代・8世紀

プレートの解説によれば、「口から霊気を吐く4頭の狻猊(さんげい)を四隅に表し、余白には唐花唐草を配し、鈕(ちゅう)も獅子を象(かたど)って」おり、出土地(京都府西京区)の近くに多くある8世紀ころの墳墓の副葬品だろうとのことです。狻猊というのは獅子に似た中国の伝説上の動物、鈕というのは鏡の裏面中央に付けられた取っ手のことです。獅子と唐草を組み合わせた文様は唐の鏡に多いそうですので、渡来人の墓の副葬品だったのかもしれません。遣唐使が唐に派遣されたのは7世紀から9世紀にかけてのことです。この鏡もその頃、唐から遣唐使船に乗って渡って来たのかもしれません。

 

6室で目を引いたのは「一の谷馬藺兜(いちのたにばりんのかぶと)」でした。

一の谷馬藺兜 安土桃山~江戸時代・16~17世紀

豊臣秀吉の兜として、岡崎藩士の志賀家に伝来したものだそうです。兜の後ろに付ける飾りを後立(うしろだて)と言いますが、アヤメの一種である馬藺の葉を模した檜の薄板を大きく広げた、クジャクの羽を思わせる装飾です。いかにも派手好きの秀吉らしい兜です。安土桃山時代には奇抜な前立や後立が流行し、東博でも展示替えのたびにいろいろな兜が楽しめます。これを秀吉から拝領したは志賀重就(しげなり)は蒲生氏郷の家臣でした。この時代、手柄を立てると直接の主君を飛び越して、天下人から褒美が与えられることがあったのですね。

 

7室には伊藤若冲「松梅群鶏図屏風」(しょうばいぐんけいずびょうぶ)」が展示されていました。

松梅群鶏図屏風右隻 伊藤若冲筆 江戸時代・18世紀

「鶏の画家」若冲らしく、鶏の様々な姿態を描き分けています。しかし、屏風全体を見ると今一つ散漫な印象を受けるのは私だけでしょうか。京都の裕福な大店の主人であった若冲は、売るためではなく好きな絵を描いて来ました。ところが、1788年、天明の大火によって自宅が焼失し窮乏すると、弟子たちにも手伝わせ生活のための絵を描いたようです。この屏風もそうした作品のひとつなのかもしれません。ただ、私自身は「動植綵絵」の鶏のようにあまりに濃厚で絢爛豪華な作品より、この屏風のすっきりした鶏たちの方が好きです。

 

8室では、ちょっと粋な徳利とキセルがならべて展示されていました。

瓢型酒入 船田一琴作 江戸時代(1843)、煙管 桜蝶文彫 江戸時代・19世紀

徳利は江戸時代後期の金工、船田一琴(いっきん)作の「瓢型酒入(ひさごがたさけいれ)」です。銅と、四分一(しぶいち・胴と銀の合金)をつなぎ合わせて作ったひょうたんの上に、鍍金の桜の花が彫られています。プレートの解説には「肩には雲間にのぞく月を銀象嵌し」と書かれていますが、月はどこでしょうか? ぐるっと後ろに回ってみたら、注ぎ口の下にありました。

夜桜と月を見ながら一杯やり、桜と蝶の文様が入ったキセルをつかう。江戸時代の趣味人の、風流な楽しみが伝わって来ました。

 

10室の浮世絵では、菊川英山の「風流雪の遊び」がひときわ輝いていました。

風流雪ノ遊び 菊川英山筆 江戸時代・19世紀 3枚続き

大きな雪だるまの前で子供たちと遊ぶ女性たちがいきいきと、何ともあでやかに描かれています。英山は歌麿、栄之に続く美人画の名手で、溪斎栄泉の師匠です。江戸中期の歌麿や栄之が理想の美人を描き、後期の栄泉や国貞が現実的な女性像を描いたのに対し、英山はその中間の女性像を描きました。近代の鏑木清方や伊藤深水の美人画に通じるように思われます。何年か前に浮世絵専門の美術館、太田記念美術館で特集されましたが、もう少し人気が出ても良い絵師だと思います。もう一度中央の女性をアップで見て、東博を出ることにしました。

 

令和六年睦月 東京国立博物館「博物館に初もうで」

新春恒例の、東博「博物館に初もうで」に行ってきました。

11時過ぎに着いたら、本館前で和太鼓の演奏をやっていました。東洋館や表慶館の建物に反響して迫力がありました。

和太鼓 湯島天神白梅太鼓

まずは、本館2階の国宝室の長谷川等伯『松林図屏風」にお参りしました。予想通り人垣ができていて、全体の写真は撮れそうにありません。

松林図屏風 長谷川等伯筆 6曲1双 安土桃山時代・16世紀 国宝 1/14まで

左隻右上の、林の上に顔をのぞかせている富士山(?)を拝んでから、特別1室の企画展示「謹賀新年 年の初めの龍づくし」で展示されている、『十二神将立像(辰神)』を観に行きました。

十二神将(辰神)京都・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代・13世紀 重要文化財 1/28まで

博物館で仏像を鑑賞するメリットは、いろいろな角度から像を観察できることです。横から見ると今にも刀を抜きそうなのですが、正面から見ると抜かないでこちらをにらみつけているようです。顔はいかめしいのですが、胴に比べ頭部が大きめで頭に乗った竜もかわいいので、全体に愛らしい腕白坊主のようです。解説文には「歌舞伎役者が見得を切るようなポーズに注目」とありましたが、「何を言ってるんだ、役者の方が俺のマネをしているんだよ」と怒っているのかもしれませんね。

その特別1室の隅に、美しい梅の大きな老木の絵がありました。

芝園臥龍梅記並詩歌 狩野栄信画 江戸時代・文化11年(1814) 紙本着色墨書

龍の特集なのになぜ梅かと思ったのですが、描かれているのが竜が横たわっているように見える大きな梅の木「臥龍梅(がりょうばい)」だからとのことでした。描いた狩野栄信(かのう ながのぶ1975~1828)は江戸時代後期の絵師で、江戸城大奥内に作業場を与えられた奥絵師の家のひとつ、木挽町狩野派の8代目です。狩野派というと豪放な水墨画や枯れた山水画をイメージしがちですが、江戸中期以降は様々な画派の技術を取り入れた作品も描くようになりました。この絵も、琳派的な華やかさも感じさせるとても素敵な作品です。

 

茶の湯の美術を展示する4室は、12月に改装されてちょっとモダンな和室のような空間になっていました。私の目を引いたのは『魚屋(ととや)茶碗 銘さわらび』という高麗茶碗でした。

魚屋茶碗 銘さわらび 朝鮮時代16~17世紀  3/10まで

釉薬にむらがあり、やや鴬色を帯びた地のうえに琵琶色のまだら模様が浮き、はなやかでありながら全体に落ち着いた美しさをたたえています。たくさんの人が周りにいるのですが、この茶碗を見ている間は静けさを感じました。

 

蒔絵を中心に漆工作品を展示する本館1階12室では、源氏物語の冊子を納める小型の箪笥「源氏箪笥」がいくつか展示されていました。

源氏物語蒔絵源氏箪笥 江戸時代・17~18世紀 木製漆塗 3/10まで

写真の源氏箪笥は、3段6個の抽斗(ひきだし)を収め、外側には源氏物語の名場面が描かれた豪華な作品です。本を入れるだけでこれほどの容器を作るとは、いかに源氏物語を中心にした文化が尊ばれていたかがしのばれます。大名家の婚礼用の調度品ではないかと解説文にありました。余談ですが、今年のNHK大河ドラマの主人公は源氏物語を書いた紫式部とのこと。私は、藤原道長らの陰謀により没落していく藤原定子の一族を、「枕草子」で美しく描いた清少納言の方が好きです。

 

近代美術を展示する1階の18室では、浅井忠の水彩画が10点展示されていました。以前、浅井の油彩を見て薄暗い絵が多いと思っていたのですが、今回見た水彩はとてもさやかで瑞々しく、少しなつかしい雰囲気を感じさせる絵が多いように感じました。彼は幕末に生まれ、最初南画を習ってから工部美術学校でイタリア人お雇い画家、フォンタネージ(1818~1882)に就いて洋画を修めました。

フォンテンブローの森 浅井忠筆 紙・水彩 1/21まで 

今回私が良いなと思ったのは、明治34(1901)年、フランス留学中に描いた「フォンテンブローの森」です。森の木陰から右上方の明るい空間を見上げる画家の視線を共有すると、120年前のフランスの郊外にいるような気が、ちょっとだけしました。

 

次に行った東洋館8室では、中国最後の文人といわれる呉昌碩(ご しょうせき 1844~1927)の生誕180年記念特集展示がありました。書は詳しくないのですが、有名な石鼓文(せっこぶん)の臨書には思わず見入ってしまいました。

臨石鼓文軸 呉昌碩筆 中華民国6年(1917)  絖本墨書 3/17まで 


石鼓文とは古代中国で10個の太鼓状の石に刻まれた、篆書(ハンコなどに使われる古い書体)の文章のことで、石は北京の故宮博物院にあるそうです。書かれている内容は全く分かりませんが、手を挙げている人や皺だらけの顔のような文字がある一方、「是」や「走」と思われる字もあって、見ているだけで楽しくなりました。

 

東洋館を出ると、本館前で獅子舞の午後の部をやっており、外国人を含めたくさんの人が見ていました。

獅子舞 葛西囃子中村社中

今年は地震と飛行機事故という、とんでもないことから始まってしまいました。世界のあちこちで戦争や紛争も続いています。どうか良い方向に世界が進んでほしいと祈りながら、東博を後にしました。

皆様、今年も健康に留意し、芸術を楽しみましょう。

 

令和五年神楽月 『阿弥陀聖衆来迎図』『柳橋水車図屏風』『風流やつし源氏・すま』『六歌仙』

今年は、11月になっても暖かい日が続いています。表題に「霜月」と書くのはふさわしくないかなと思っていたら、東博本館10室に鈴木晴信の『風流四季哥仙・神楽月』という作品が展示されていましたので、旧暦11月のもう一つの呼び名「神楽月(かぐらづき)」とすることにしました。

その絵は、父親が女の子を肩に担いで、家族で七五三の宮参りに向かう江戸風俗を描いたほのぼのとした作品です。上段に「杉たてる門はなけれと里かくら 是や宮井のはしめなるらん」という歌が記されています。

鈴木晴信『風俗四季哥仙・神楽月』江戸時代・18世紀 中判 錦絵

 

それでは、3室『阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)』をご覧ください。鎌倉時代・14世紀の仏画です。

       『阿弥陀聖衆来迎図』鎌倉時代・14世紀 絹本着色

平安時代後期から鎌倉時代にかけて、阿弥陀如来を信仰する浄土信仰が盛んになりました。それは、釈迦が亡くなってから長い時が過ぎ、末法の世になると厳しい修行をしても救われないという思想が広まったからです。阿弥陀如来は、自ら全ての人々を救うという誓願を立てた仏様ですので、念仏すれば誰でも救われると考えられたのです。当時、末法は1052年に始まるという説が広く信じられていましたので、その頃から様々な阿弥陀如来の絵や仏像が作られました。この絵は、阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩を先導に、多くの菩薩を従えて臨終の死者のところへ迎えに来た図です。如来の額からは、右下にいるであろう死者の元へ光線が放たれている荘厳な光景です。でも、如来の周りでは笛や太鼓や琵琶など、さまざまな楽器を菩薩たちが楽し気に演奏しています。

 

琵琶はエレキギター、腰の鞨鼓はラテンの打楽器のようで、陽気なゴスペルソングが流れてきそうです。『阿弥陀経』というお経には、「その仏の国土(浄土)にはそよ風がわたって宝樹の並木や宝玉の羅網をゆらし、美しい音をたてます。風が吹くと一斉に百千種の楽器が交響するかのように音楽を奏でる」と書かれています。この絵の菩薩たちはいわばその予告編を実演しているのでしょう。そう考えてこの絵を見ていると、なんだか楽しくなって来ます。昔の人もきっとこの絵を見て楽しくなったのではと考えるのは、私だけでしょうか。

 

本館7室には、六曲一双の大きな屏風『柳橋水車図屏風(りゅうきょうすいしゃずびょうぶ)』が展示されていました。

     『柳橋水車図屏風』筆者不詳 安土桃山~江戸時代 六曲一双 
             紙本金地着色 重要美術品

 

まばゆいばかりの金地の上に、右から左へ大きな橋が架かっています。橋は上から俯瞰した図なのですが、手前の柳や水車は横から眺めたように描かれています。水平と垂直が同一平面上に大きく広がっているのですが、ちっとも不自然に感じません。尾形光琳国宝「八橋蒔絵螺鈿硯箱」を大きな屏風の平面に広げたような感じです。東博本館の特別4室では、画面上で板橋や燕子花を配置し、立体的な独自の硯箱をディスプレーに表示できるコーナーがあります。この絵もそんな蒔絵の硯箱にしてみたくなります。橋と柳を配置した絵は京都の宇治橋を表しているそうで、この時代流行した画題だそうです。絵の中に入り、まずは右手から橋をわたり、柳の風景を堪能してから水車を見て、手前の椅子に座ってまた全体を眺めると、絵の世界を回遊してきた満足感が得られます。

 

本館10室では、現在平成館で開催中の特別展「やまと絵ー受け継がれる王朝の美ー」とコラボした見立絵を中心とした浮世絵が展示されていました。その中から2点ご紹介します。

まずは鳥文斎栄之の『風流やつし源氏・すま』です。

鳥文斎栄之栄之筆『風流やつし源氏・すま』江戸時代・18世紀 大判 錦絵

スキャンダルを起こして兵庫県の須磨に蟄居した頃の、光源氏が描かれています。女性たちは皆江戸時代の風俗ですが、右上の源氏だけは平安時代の貴族の装束です。古典時代の人が江戸時代に身をやつして表れたことから、この種の絵は「やつし絵」とも呼ばれました。そういえば、以前NHK光源氏がそのままの格好で現代にタイムスリップしてきたドラマがありました。江戸時代の人々もそんなことを夢想したのでしょうか。少し暗い画面ですが、これは紅色等派手な色を敢えて使わない、江戸時代中期に登場した「紅嫌い(べにぎらい)」と呼ばれた技法です。落ち着いた抒情的な絵が多く、栄之や窪俊漫が得意としましたが、派手好きの江戸っ子にはあまり評判が良くなかったようで、長くは続きませんでした。

 

最後は闇牛斎円志(あんぎゅうさいえんし)の『六歌仙』、とんでもなくおもしろい絵です。

     闇牛斎円志筆『六歌仙』 江戸時代・18世紀 横大判 錦絵

 

円志は生没年不詳の謎の絵師です。清長風の美人群像が数枚伝わっていますが、それとはまったく異なる大胆な絵です。私も今回初めて見てびっくりしました。六歌仙紀貫之が『古今和歌集』の仮名序で取り上げた平安初期の6人の歌人僧正遍昭在原業平,文屋(ふんや)康秀,喜撰法師小野小町大友黒主のことで、歌聖として崇拝されました。円志は、「歌聖と言ってもただの人間じゃないか」と洒落のめしています。左の抱き合っている二人は、在原業平小野小町でしょう。他の4人が歌を作ろうとして呻吟しているのを、笑っているのでしょうか。視点を変えてみると、4人は抱き合う業平と小町のことが可笑しくて、笑いをこらえているようにも見えます。江戸時代の人々は、古典の世界を身近なものとして楽しんでいたのですね。

 

最後に、特別2室に展示されている『色紙三十六歌仙図屏風』に小野小町の像がありましたので、絶世の美女と言われた彼女の名誉のためにご紹介します。

   『色紙三十六歌仙図』江戸時代・17世紀 紙本著色・墨書 部分

 

☆このブログは、4~5週間ごとに展示作品が替わる東京国立博物館の国宝室と浮世絵の展示替えにあわせて更新しています。本館2階は12月5日(火)から24日(日)まで整備のため閉室となり、その後全館休館となりますので、次回は1月初めを予定しています。

 

参考文献 『全文現代語訳 浄土三部経』大角修訳 角川ソフィア文庫

 

 

 

     

令和五年神無月 『善財童子』、『大原御幸図屏風』、『役者似顔錦絵』、『渓山四時』

今日はまず、東京国立博物館本館11室の善財童子に会いに行きました。合掌して文殊菩薩の方を振り向く可愛らしい像です。運慶の孫弟子の康円が作った『文殊菩薩騎獅像および侍者立像(もんじゅぼさつきしぞうおよびじしゃりゅうぞう)』の中の一体です。

善財童子は「華厳教」という経典に登場する裕福な商人の子です。悟りを求めて文殊菩薩に教えを乞うと、53人の先生(善智識)を訪ねなさいと教えられ旅に出ます。彼が訪ねた53人の中には菩薩、神の子、修行僧、商人、先住民族ドラヴィダ人などいろいろな人々がいましたが、25人目の尼僧が青い目をしたヴァスミトゥラーという遊女に会うことを勧めます。尼僧が子供に遊女を紹介するというのはすごい話ですが、この遊女はあらゆる人々の求めにあわせて変身し「執着がない境地」に至らせるという力の持主でした。善財童子はその後も旅を続け、最後に普賢菩薩に会って悟りを開きます。日本の能「江口」も、江口の遊女が実は普賢菩薩の化身だったというお話ですが、華厳経の影響かも知れません。また、宮沢賢治の研究者の中には、『銀河鉄道の夜』のジョバンニのモデルは善財童子だと言う人もいます。

作品の全体像は次の通りです。

文殊菩薩騎獅像および侍者立像」康円作 重用文化財 奈良・興福寺伝来
鎌倉時代・文永10年(1273)  展示期間2023.9.23-12.24

次は、本館8室に展示されている、長谷川久蔵(1568-93)の『大原御幸図屏風(おおはらごこうずびょうぶ)』です。

「大原御幸図屏風 」6曲1隻  長谷川久蔵筆  安土桃山時代・16世紀 
展示期間2023.9.1-10.15

描かれているのは、源平戦乱の後、文治2(1186)年、京都大原の寂光院後白河法皇建礼門院を前触れなく訪れた場面です。建礼門院平徳子)は清盛の娘で、後白河法皇の息子高倉天皇中宮でした。平家が敗戦した壇ノ浦で入水後、救い出された彼女は出家し貧しい生活を送っていました。門院にとって後白河法皇は、義仲や義経を操って平家滅亡に向けて暗躍したいわば仇敵にあたります。

屏風の大画面の中で、二人の姿は小さく描かれています。しかし、よく見ると二人とも穏やかな表情をしています。長く激しい戦乱が終わり、恩讐を超えてひとときの平和を楽しんでいるかのようです。

長谷川久蔵は長谷川等伯の息子で、その画風の清雅さは父に勝ると言われましたが、26歳の若さで亡くなりました。父の等伯狩野派の牙城に激しく挑みましたが、狩野派との交流もあったと思われる久蔵は、戦いを好まぬ穏やかな青年だったのではないでしょうか。法皇と門院の穏やかな表情を見て、ふとそんなことを考えさせられました。

 

本館10室で面白い浮世絵版画を見つけました。勝川春好(しゅんこう)の『江戸三芝居役者似顔錦絵』です。

「江戸三芝居役者似顔錦絵」勝川春好筆 横大倍版 錦絵 江戸時代・寛政3(1971)年 
展示期間2023.10.3-11.5

鳥居清長の芝居番付と並んで同じような構図の作品ですが、芝居番付は鳥居派の専売品ですので、これは芝居番付に似せて作った錦絵です。鳥居派の芝居番付が墨一色で役者の姿も様式化されているのに対し、春好の師匠勝川春章は役者似顔絵の先駆者でしたので、この絵も本物の役者に似せて描いているようです。絵の横に名前が記されています。

中央下部にしゃがんでいる男は「市川白猿(はくえん)」、五代目市川團十郎(1741-1804)の俳名です。右上の勘亭流の文字では市川蝦蔵と書かれています。彼は父の四代目ほどの役者ではないと謙遜して海老蔵ではなく蝦蔵と自称しました。蝦蔵の絵の真上には、今は香川照之が名乗っている市川中車が見えます。中車も俳号で、左上の勘亭流の文字では市川八百蔵(三代目1747-1819)と書かれています。二人の横に立つ女形は瀬川路考(ろこう、俳名)、当時ナンバーワンの女形、三代目 瀬川菊之丞(1751-1810)です。おもしろいのは、右上端に描かれている人相の悪い役者は三代目大谷鬼治(1759–96)です。後に写楽が描いた有名な『三代目大谷鬼治の江戸兵衛』のモデルです。こういう癖のある脇役は大好きです。

11月は歌舞伎の1年の始まりの月。これから1年、このメンバーで務めますという「顔見世興行」があります。この錦絵を買った江戸っ子は、贔屓の役者の姿を思い描いて楽しんだことでしょう。

 

最後に本館18室(近代美術)を通ったら、川合玉堂(1873~1957)の『溪山四時(けいざんしじ)』に思わず眼を奪われました。まるで3D画面のように奥行きが感じられたからです。

「溪山四時」6曲1双の内左隻 川合玉堂筆  昭和14年(1939) 展示期間2023.9.10-10.22

それも、単に遠近法を使っているだけでなく、屏風の凹凸を利用して、各面の奥への折り目に絵の遠景が来るように構成されているのです。玉堂は、きれいだけれど毒にも薬にもならない絵を描く画家と思っていたのですが、写実もここまで来ると魔術です。こういう絵では、絵の中の人物になり切って画面の中を旅することこそ醍醐味です。ちょうど、左隻の右端の小道を二人の親子らしい人物が歩いています。彼らと一緒に雄大な風景の中を散策しましょう。

 

☆このブログは、4~5週間ごとに展示作品が替わる東京国立博物館の国宝室と浮世絵の展示替えにあわせて更新しています。次回は11月10日頃を予定しています。

 

参考文献 中村元『現代語訳大乗仏典5 華厳経 瑜伽教』東京書籍

令和五年葉月(2)『厩図屏風』、魚屋北渓『玉川布晒し図』、インド細密画『ラーダーの髪を編むクリシュナ』

東京国立博物館本館2階の3室には、珍しい屏風が展示されていました。室町時代の作品で、重要文化財の『厩(うまや)図屏風』です。室町時代は戦乱が続く武士の世でした。武士たちにとって馬は戦場での乗物であるばかりでなく、貴重な宝物だったようです。この絵では、邸宅と変わらぬ立派な厩が建てられ、馬は板張りの部屋の中につながれています。この屏風には馬だけでなく鳥や獣、ゲームで遊ぶ人々が描かれており、当時の風俗がしのばれます。右隻には囲碁を打つ人々、馬の前で寝転ぶ人、犬や白鷺が描かれ、のどかで静かな時間が流れています。

『厩図屏風』室町時代・16世紀 六曲一双の内右隻 展示期間2023.8.8-9.18

左隻では、将棋や双六に興じる人々や猿が描かれています。馬たちは何故か興奮して騒いでいます。双六を打つ人々がきっと何かを賭けていて、その興奮が乗り移ったのでしょう。左端の人物が、馬を見て何かを語り掛けてなだめているようです。

同上 左隻(部分)

16世紀に日本を訪れたルイス・フロイスが立派な厩を見て、「馬を休息させるというよりは、むしろ身分の高い人々の娯楽用の広間に類似していた」と書き残しているそうです。本当にこの絵のような厩があったのですね。

 

次は、本館2階10室に展示されている肉筆浮世絵、魚屋北渓(ととやほっけい、1780~1850)の『玉川布晒し図』です。北渓は北斎の弟子で、四谷で大名向けの魚屋を営んでいたので、画号にも魚屋(ととや)と付けていました。若い頃狩野派の絵師について学んだため、絵の基本がしっかりしています。

魚屋北渓『玉川布晒し図』江戸時代・19世紀 展示期間2023.8.29-10.1

この絵では、調布の玉川の川辺で、竹竿で布をさらす若い女性と、杵で布を打つ年配の女性を対照させて描いています。若い女性は玉結びの髪に両襷掛け、格子縞の帯に赤い湯文字。年上の女性は姉様かぶりに片襷掛け、更紗の帯に白い湯文字を身に付けています。薄墨を基調にした淡い色の背景の上に、鮮やかな色彩をまとった二人の姿が浮かび上がっており、空にはホトトギスが飛んでいます。若い女性の健康的で大きな足のそばには蟹が一匹います。さすが魚屋です。

 

東洋館地下の13室に、おもしろいインド細密画『ラーダーの髪を編むクリシュナ』が展示されていました。

『ラーダーの髪を編むクリシュナ』カンパニー派 インド 19世紀後半 
展示期間2023.8.29-9.24

クリシュナはヒンドゥー教の神様です。インド神話にはたくさんの神様がいるのですが、クリシュナは、最高の神でありながら、人間臭いところがあり人々から大変愛される英雄でもありました。クリシュナという名は、本来、「黒い」「暗い」「濃い青の」「皆を引きつける」を意味するサンスクリット語に由来するそうで、この絵でも青黒い肌で描かれています。そして、何よりもこの絵の特徴は西洋風の構図で描かれていることです。宮殿の中で恋人ラーダーのかたわらにひざまずくクリシュナのポーズは、ルネサンス期の受胎告知の天使を連想させます。暗い室内と明るい窓の外の光景の対比も西洋的です。日本の浮世絵が長崎経由もたらされた西洋の画法や画材に影響されて発展し、それが幕末には西洋の印象派に影響を与えたように、文化の交わるところにはおもしろい作品が登場します。ただ、この絵が描かれた19世紀後半、インドはイギリスの植民地でした。やがて独立運動も盛んになる難しい時代だったことも忘れてはならないでしょう。

 

なお、本館2階国宝室には国宝『法華経 譬喩品(久能寺経)』が展示されていました。金銀の切箔が散りばめられ、銀泥で鳥や草などの下絵が描かれた豪華な料紙に、藤原定信の流麗な文字が記されています。今回公開部分の結縁者(その巻の制作を担当した人)として、崇徳上皇後白河上皇の母であり数奇な運命を生きた待賢門院璋子(1101~45)の名が巻末に記されていました。寄託品のため撮影禁止でしたので、残念ながら画像をご紹介できません。

 

☆このブログは、4週間ごとに展示作品が替わる東京国立博物館の国宝室と浮世絵の展示替えにあわせて更新しています。次回は10月初めを予定しています。

 

参考文献

室町時代の屏風絵』東京国立博物館 朝日新聞社 1989年 他