令和六年如月 雪の東博と「中尊寺金色堂」展

作日、東博に行ってきました。前日の雪が少し残っていて、人出は少ないかと思って来たのですが、特別展「中尊寺金色堂」が開催されている本館特別5室は満員の盛況でした。

金色堂の中央壇上の国宝の仏像11体が、寺の外で揃って公開されるのは初めてだそうです。中尊寺に行っても、仏像群は金色堂の奥に正面からのぞき見ることしかできませんので、間近で、しかも四方から拝観できる機会はとても貴重です。「阿弥陀如来坐像」は、以前平泉で見た時の印象では端正だけれど平凡な象だなと思っていたのですが、近くで見た本物は深遠な静けさを感じる素晴らしいものでした。他の諸像も含め、図録やポスターでは伝わらない美と荘厳さが確かに感じられました。作品の写真撮影はできなかったのですが、出口近くに置かれた金色堂の模型だけは撮影可能でした。たくさんの人が撮っていましたので、人の流れの隙をねらって撮影しました。

 

本館1室には、珍しい四角形の銅鏡、「瑞花狻猊方鏡(ずいかさんげいほうきょう)」が展示されていました。

瑞花狻猊方鏡 京都市西京区山田桜谷町出土 奈良時代・8世紀

プレートの解説によれば、「口から霊気を吐く4頭の狻猊(さんげい)を四隅に表し、余白には唐花唐草を配し、鈕(ちゅう)も獅子を象(かたど)って」おり、出土地(京都府西京区)の近くに多くある8世紀ころの墳墓の副葬品だろうとのことです。狻猊というのは獅子に似た中国の伝説上の動物、鈕というのは鏡の裏面中央に付けられた取っ手のことです。獅子と唐草を組み合わせた文様は唐の鏡に多いそうですので、渡来人の墓の副葬品だったのかもしれません。遣唐使が唐に派遣されたのは7世紀から9世紀にかけてのことです。この鏡もその頃、唐から遣唐使船に乗って渡って来たのかもしれません。

 

6室で目を引いたのは「一の谷馬藺兜(いちのたにばりんのかぶと)」でした。

一の谷馬藺兜 安土桃山~江戸時代・16~17世紀

豊臣秀吉の兜として、岡崎藩士の志賀家に伝来したものだそうです。兜の後ろに付ける飾りを後立(うしろだて)と言いますが、アヤメの一種である馬藺の葉を模した檜の薄板を大きく広げた、クジャクの羽を思わせる装飾です。いかにも派手好きの秀吉らしい兜です。安土桃山時代には奇抜な前立や後立が流行し、東博でも展示替えのたびにいろいろな兜が楽しめます。これを秀吉から拝領したは志賀重就(しげなり)は蒲生氏郷の家臣でした。この時代、手柄を立てると直接の主君を飛び越して、天下人から褒美が与えられることがあったのですね。

 

7室には伊藤若冲「松梅群鶏図屏風」(しょうばいぐんけいずびょうぶ)」が展示されていました。

松梅群鶏図屏風右隻 伊藤若冲筆 江戸時代・18世紀

「鶏の画家」若冲らしく、鶏の様々な姿態を描き分けています。しかし、屏風全体を見ると今一つ散漫な印象を受けるのは私だけでしょうか。京都の裕福な大店の主人であった若冲は、売るためではなく好きな絵を描いて来ました。ところが、1788年、天明の大火によって自宅が焼失し窮乏すると、弟子たちにも手伝わせ生活のための絵を描いたようです。この屏風もそうした作品のひとつなのかもしれません。ただ、私自身は「動植綵絵」の鶏のようにあまりに濃厚で絢爛豪華な作品より、この屏風のすっきりした鶏たちの方が好きです。

 

8室では、ちょっと粋な徳利とキセルがならべて展示されていました。

瓢型酒入 船田一琴作 江戸時代(1843)、煙管 桜蝶文彫 江戸時代・19世紀

徳利は江戸時代後期の金工、船田一琴(いっきん)作の「瓢型酒入(ひさごがたさけいれ)」です。銅と、四分一(しぶいち・胴と銀の合金)をつなぎ合わせて作ったひょうたんの上に、鍍金の桜の花が彫られています。プレートの解説には「肩には雲間にのぞく月を銀象嵌し」と書かれていますが、月はどこでしょうか? ぐるっと後ろに回ってみたら、注ぎ口の下にありました。

夜桜と月を見ながら一杯やり、桜と蝶の文様が入ったキセルをつかう。江戸時代の趣味人の、風流な楽しみが伝わって来ました。

 

10室の浮世絵では、菊川英山の「風流雪の遊び」がひときわ輝いていました。

風流雪ノ遊び 菊川英山筆 江戸時代・19世紀 3枚続き

大きな雪だるまの前で子供たちと遊ぶ女性たちがいきいきと、何ともあでやかに描かれています。英山は歌麿、栄之に続く美人画の名手で、溪斎栄泉の師匠です。江戸中期の歌麿や栄之が理想の美人を描き、後期の栄泉や国貞が現実的な女性像を描いたのに対し、英山はその中間の女性像を描きました。近代の鏑木清方や伊藤深水の美人画に通じるように思われます。何年か前に浮世絵専門の美術館、太田記念美術館で特集されましたが、もう少し人気が出ても良い絵師だと思います。もう一度中央の女性をアップで見て、東博を出ることにしました。