令和五年文月 縄文時代の「注口土器」 藤原定家の「申文」 広重の「両国花火」 そして宮沢賢治


今週、東京国立博物館(トーハク)本館では、1室(縄文・弥生・古墳)、国宝室、10室(浮世絵)他で展示替えがありました。また、2室では先週から特集展示「藤原定家ー『明月記』とその書」が始まっています。今回はその中から次の3点をご紹介します。

 

最初は、1室の重要文化財「人形装飾付異形注口土器(ひとがた そうしょくつき いけい ちゅうこうどき)」です。重要文化財に指定されています。

人形装飾付異形注口土器 北海道北斗市出土 縄文時代後期 
重要文化財 展示期間2023.6.27-8.6

注口土器(ちゅうこうどき)というのは、縄文時代後期に東北地方を中心に造られた、土瓶(どびん)のような形をした土器です。中央にある穴は、本来ここに注ぎ口が付いていたことを示しています。通常はかわいらしい形をしているのですが、この土器には人面のついた大きな持ち手が本体の上に乗っかっており、迫力があります。まさに作品名にある通り「異形」の土器です。出土したのは北海道の道南地方にある北斗市です。このあたりは、有名な青森県三内丸山遺跡をふくむ17の遺跡が、「北海道・北東北の縄文遺跡群」としてユネスコ世界文化遺産に登録されている地方です。昨年、北斗市の隣の函館市にある「函館市縄文文化交流センター」に行ってきましたが、そこに墓の中から発掘された9,000年前の世界最古の漆(うるし)の糸の遺物が展示されていました。現在も発掘が続けられており、北海道にも豊かな縄文文化があったことを実感しました。縄文時代にはお茶はありませんでしたので、土瓶に似ているからといってみんなで茶飲み話をしたわけではないでしょう。この作品の解説プレートには、「葬送などの儀礼に使われたと考えられて」いると記してありました。トーハクの平成館考古展示室にある青森県出土の注口土器について、「注口部が男性器を真似る例が多い」との解説が文化遺産オンラインにありました。https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/464435

生と死に関わる重要な儀礼に使われていたのでしょうが、どんな儀礼であったのか、私には想像することもできません。

 

次はちょっとおもしろい作品です。和歌の世界の巨人藤原定家(ふじわらのていか1162-1241)が自分の昇進が遅いのを不服に思って書いた上申書で、「申文(もうしぶみ)」と言います。これも重要文化財です。

申文 藤原定家筆 鎌倉時代建仁2年(1202) 紙本墨書 
重要文化財 展示期間2023.6.27-8.6

申文というのは平安時代以降、官人が役職や官位の昇進を望むとき、希望する官職を挙げ、その理由を書いて朝廷に提出した文書のことです。定家は藤原北家御子左流という比較的恵まれた血筋だったのですが、1189年、28歳で少将に任官してから14年間も同じ地位に留められていました。若い頃に殿上で暴力事件を起こしたせいかもしれません。この文書の冒頭に昇進を希望するために「転任所望事」と記し、2行おいて「就中、寿永二年秋、忝列仙籍以来、奉公労二十年」とあります。寿永2(1183)年に正五位下になって以来朝廷に長く勤めており、昇進が当然であることを理由を挙げて述べています。この「申文」の結果、建仁2年(1202)10月、41歳のときに晴れて中将に昇進し、晩年には中納言・正二位という高い地位にまで上りました。この申文は肉太の力強い筆跡で書かれており、定家の気迫が感じられます。現代のサラリーマンが上司に「課長にしてくれ」と文章で提出したら、「おまえは馬鹿か」と言われそうです。昔の人の方がよほど合理的であったのかもしれません。『古今集』の撰者である紀貫之従五位下止まりと、有名な歌人は意外に出世していないのですが、定家はなかなかの策士であったようでトップクラスの貴族である公卿にまで出世しました。そのおかげもあってか、彼の孫の為相(ためすけ)が創始した冷泉家は長く続き、数々の貴重な文化遺産を残してくれました。

 

最後はこの時期にふさわしい浮世絵、歌川広重の『名所江戸百景・両国花火』です。

名所江戸百景・両国花火 歌川広重筆 江戸時代・安政5年(1858)  
大判 錦絵 展示期間2023.7.4-7.30

現在は「隅田川花火大会」として有名なこの催しは、江戸時代中期、享保18年(1733)5月28日に始まった両国川開きにまでさかのぼるといわれています。両国川開きは、飢饉や疫病による死者を供養し災厄除去を祈願して行われ、その初日に花火が打ち上げられたのがはじまりとのことです。浮世絵でも、豊春、豊国、北斎等多くの絵師が描いています。なかでもこの広重の作品はユニークです。隅田川上流の上空から、両国橋を俯瞰して描いており、現代のテレビ中継のような視点です。ヘリコプターもドローンもない時代に、広重の心ははるか上空まで羽ばたいていたのでしょう。橋の上をぎっしりと埋め尽くした人々や、たくさんの船にも人影が見えます。花火の光と提灯の灯に照らされた水面の青が心にしみます。なお、今年の「隅田川花火大会」は7月29日に開催されるそうです。

 

話は変わりますが、先日岩手県花巻市宮沢賢治記念館に行ってきました。賢治は浮世絵が大好きで、買い求めては人に与えていたとのことです。その内の何枚かが遺族に残り、展示されていましたので撮影してきました。広重の作品もありました。(同館はほとんどの展示品が営利目的でなければ撮影可でした。)

賢治はたびたびトーハクにも訪れており、大正5(1916)年9月、20歳のときの友人宛手紙に次の様に記しています。

「博物館に行って知り合いになった鉱物たちの広重の空や水とさよならをして来ました。」*1

「知り合いになった鉱物たち」とは何でしょうか。浮世絵好きの人ならおわかりでしょう。江戸時代後期、ヨーロッパから長崎経由もたらされた顔料絵具「ベロ藍(ベルリン・ブルー)」のことです。ベロ藍は染料と違い褪色もせず安価だったことから、渓斎英泉が使い始め、広重や北斎も盛んに用いました。広重の浮世絵がヨーロッパにもたらされると、「広重ブルー」と呼んで絶賛されたということです。賢治もこの鉱物由来の顔料のことをよく知っていて、上記の手紙の表現になったのでしょう。

 

今月は、その頃賢治がトーハクで見た浮世絵について詠んだ短歌*2をご紹介して終わることとします。

 

 うたまろの 

 乗合ぶねの前に来て 

 なみだながれぬ 富士くらければ

 

宮沢賢治がトーハクで観た作品は、次の「一富士、二鷹、三茄子」と思われます。

現在のトーハクの画像検索では出てきませんが、米国議会図書館のページにありました。Ichi fuji ni taka san nasubi (loc.gov) )

 

 

 

 

 

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*1:ちくま文庫版『宮沢賢治全集9』p.41

*2:ちくま文庫版『宮沢賢治全集3』p.275