令和五年皐月 家康の「日課念仏」、浮世絵、シルクロードの菩薩像頭部

今週、東京国立博物館本館では、国宝室、5・6室(武士の装い)、10室(浮世絵)他で展示替えがありました。国宝室では詩画軸『渓陰小築図』が展示されていましたが、寄託品のためか撮影不可とのことで、残念ながらご紹介できません。その代わり、面白いものを5室で見つけました。徳川家康自筆と伝わる『日課念仏』です。

日課念仏』伝徳川家康筆 江戸時代・17世紀 展示期間 5/9~6/18

南無阿弥陀仏」という文字が何と252個も書きつけられています。家康の宗旨は浄土宗でした。その開祖法然は平安末期の人で、釈迦が死んで長い時が過ぎた末法の世では、阿弥陀仏の名前をとなえることでしか人々は救われないと考えました。家康の生きた時代は戦国時代、末法の世よりもっとひどい修羅道の世界でした。彼自身生涯に何度も死を覚悟したことがあったようです。阿弥陀仏にすがり、なんとか死後は極楽浄土に生まれ変わりたいと願った表れがこの『日課念仏』なのかもしれません。その家康の肖像画も展示されていました。

徳川家康像(模本)』(部分)原本:狩野探幽筆  江戸時代・17世紀 展示期間 5/9~6/18

江戸時代初期の狩野派の総帥、狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた家康の肖像画の模写です。元の絵は戦災で焼失したとのことです。探幽は1612年、数えで11歳の時に駿府で家康に拝謁しています。既に天才絵師と言われていましたので、顔は忘れないはずですから、晩年の家康はきっとこんな顔をしていたのでしょう。手前にいるお坊さんは、家康のブレーンの一人だった天海大僧正です。天海は家康の死後、家康を東照大権現として神格化するうえで重要な役割を果たしました。神様になる家康が、生前は一生懸命「南無阿弥陀仏」ととなえていたかとおもうと、ちょっとおかしいですね。

 

次は10室で展示されている浮世絵、鳥居清長の『三代目瀬川菊之丞之石橋(しゃっきょう)』です。

『三代目瀬川菊之丞の石橋』鳥居清長筆 寛政元年(1789)  展示期間5/9~6/4

三代目瀬川菊之丞(1751-1810)は江戸の俳優の最高位にランクされた女形で、多くの浮世絵師が描いています。現代で言えば、坂東玉三郎のような存在だったのでしょう。演じているのは能を原作とする歌舞伎舞踊「石橋」で、文殊菩薩の使いである獅子が石橋の上で踊り狂っている場面です。鳥居清長は、すらりとした長身の美人風俗画で有名ですが、この絵では牡丹の花に囲まれて踊る菊之丞のスピーディーな動きを活き活きと描いています。この絵から10年後、同じ菊之丞が踊る「石橋」を歌川豊国が描いた作品が、隣に展示されています。

『三代目瀬川菊之丞の石橋』歌川豊国筆 寛政10年(1798)  展示期間5/9~6/4

こちらは、踊っていた獅子が石橋の欄干に足をかけ、一瞬止まった場面を描いています。豊国は、演者の最も美しい瞬間を的確にとらえる役者絵の名手です。菊之丞も、10年前より貫禄がついて堂々としているようです。

なお、今回は展示されていませんが、写楽も菊之丞を何枚か描いています。そのうちの1枚、『三世瀬川菊之丞の田辺文蔵 妻おしづ』を、下記のリンクを開いて見てください。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032099

太い首、つりあがった目に大きな鼻。この絵を見た菊之丞は、きっとがっかりしたことでしょう。江戸時代の書物にも、写楽は「役者の似顔をあまりにそのまま描いたので、あってはならない姿に描いた。そのため、1年ほどで姿を消した*1」と記されています。清長や豊国は、役者が舞台上で役になり切った姿を描いたのに対し、写楽は役を演じる役者本人を描いたのかもしれません。明治時代に西洋人によって再発見された写楽は、肖像画家としては素晴らしいのですが、江戸の大衆が求めた浮世絵師にはなれなかったようです。

 

最後は、東洋館3室に立ち寄って『菩薩像頭部』を見てきました。

『菩薩像頭部』 中国 7~8世紀 展示期間 5/9~6/25

大谷探検隊が約100年前に中国のシルクロードで発掘してきたもので、とても美しい像です。仏像は今のパキスタンであるガンダーラに始まり、インド、中国、朝鮮、日本と伝わるうちに、それぞれの国民に似て変容していきました。この菩薩像は、様々な民族の血が混じったシルクロードの民が作ったのでしょうか。一部破損しているため想像が膨らむせいか、私には女優のアンジェリーナ・ジョリーの顔に似ているような気がしてきました。

 

今月は以上です。来月また上野に行ってきます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:『浮世絵類考』岩波文庫p.118より意訳